本の話・14回目

5月の課題図書は島田潤一郎さんの『90年代の若者たち』。

島田潤一郎さんは夏葉社を創業されたときの初期の頃からどこかでお名前を聞いていて、その後もずっと夏葉社の本には注目して書い求め続けてて、『90年代の若者たち』は出版情報が出始めたときから買うと決めていた。
出版社の名義をあえて夏葉社にはしなかったというエピソードも含めて、今の時代に出てくれてよかったと思える本だった。

「あの頃を振り返って語る」というのは、ちゃんと生き続けている私たちの役目だとも思うのだ。

 

島田さんが本文のなかでもあとがきのなかでも触れていた早逝された90年代の若者たちのことを書き綴ったように、今話してみたい人とか捧げたい人が思い浮かぶ。
自分も地球でそれなりの時間を過ごしてきたので、90年代の頃のあの空気を知っているし、もうこの世には居なくなってしまった若いままで時間が止まってしまった同世代も出てきている。
今とは違うあの空気感はもう過去のことで、記憶の奥底をほじくってみることでしかもうおぼろげな形も見えてこない。
あのとき体感したことが過去へ過去へとぐいぐいと流されていくかのようで、嬉しかったことも悲しかったことも、記憶がどんどんとか細くか細くなっていっている。

 

読んでみて固有名詞の持つ力強さを改めて感じる。
固有名詞が一気に記憶を掘り起こしてくる。
ちりちりとした記憶への刺激が心地良くも思える。

 

ぼくは、すばらしい歌を歌いたかったし、よい小説を書きたかったし、女性にもてたかったし、おしゃれになりたかった。芸能人の友だちをつくりたかったし、英語の本が読めるようになりたかったし、外国人たちと政治や歴史について話してみたかった。でも、なにもできなかった。(p.113)

「自分がなにもできない」という感覚はいつぐらいから自分の背中あたりに貼り付いていたのかは今となっては思い出せない。
やりたいこととできないこととの間で板挟み。
苦しさとか、部屋でひとりで拗ねていたようなうっすらとした記憶。

ぼくもなにもできなかった。

 

ぼくは、オザケンがあたらしいシングルを発売してくれれば、すこしは前に進めるのに、と思っていた。そう思っているうちに、19年の歳月が流れた。(p.118)

「ほんとそうだな」とも思いつつ、こうして時間が経ってしまえば19年なんてあっという間だった。
ほんとにちゃんとそのときが来るまで生きていられてよかったな。
ほんとによかったよ。

 

音楽のどのジャンルが好きか、というのがその時代の個性であって、音楽そのものが好きじゃない、という若者はほとんどいなかった。(p.127)

音楽を語るときにジャンルを語る。
そうかあのときにそういう人たちもいたのか。
振り返ると自分はあまりジャンルの話をしていなかったように思う。
ジャンルというラベリングをする作業すら不安だったりしたのだ、自分は。
音楽を語ることの楽しさはわかる。
今でもそれは好きなことではある。
でも友だちがジャンルを語ろうとすると不安になったのだ、うっかり間違った答えを言ってしまうことが怖かったのだ。
誰かが分類してきたジャンルを通して音楽を語ることには常につきまとう変な怖さがある。
そのせいかiTunesとかで曲をインポートするときに「ジャンルを選べ」と迫ってくるあの感じが今でも慣れないままでいる。
自分の聴いている音楽のジャンルを決める作業は今でも慣れない。
「どれでもいいよ」とか思いながら、だいたいRockかPopを選んでいる。
気持ちの上ではMusicというジャンルを選んでいる。

 

その意味で、本というのは、人間に強さをもたらしたり、ポジティブな価値を与えるというより、人間の弱い部分を支え、暗部を抱擁するようなものだと思う。だから、ぼくたちは本が好きなのだし、本を信頼していたし、それを友だちのように思っていた。
それは本だけではなかった。音楽もそうだった。(p.168)

自分の弱い部分を支えてくれた本も確かにあったのだけれど、そういう確かな(過去においては確かな)本ですら、最近は思い出せなくなっている。
本棚からなくなってしまった(売り払ってしまった)本のことは不思議とあまり思い出せない。
もう、そこに書かれていた言葉が必要ではなくなってしまったのだろうか。自分の心と身体が。
どちらかか、その両方なのか。

けれどなぜだか音楽は思い出せる。
信頼してきた本と再会するよりも、音楽と再会するほうがなぜだか簡単に気がするのは、口ずさむことができるからだろうか。
口ずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?みたいだな。

 

あのとき見ていたものや聴いていた音楽は今でも触れている。
自分の大事な部分をつくりあげてくれた相棒のような本や音楽たち。
何の目的もなしに読みたい本を読み聴きたい音楽を聴く。
手のひらからこぼれ落ちてしまったものごとも多いし、買ってよく聴いたCDもあって、あんまり聴かずに売り飛ばしてしまったCDもあって、売ったのにその後に買い直したCDもあって、自分にとっての90年代は今でもぼわぼわした姿を身の回りに漂わせている。
この本を読んでいて、自分のものさしはだいたい90年代につくられていることに気がつく。
堀部さんの『90年台のこと』の帯には「スマートフォンのない時代へ」と書いてある。
90年代は便利ではなかった時代かもしれないけれど、便利ではなかったからこそ見えていた世界があって、そういう世界をものさしにして生きていくしかなかった。

堀部さんの『90年代のこと』も併せて読み返してみたい。