本の話・8回目
今回の本は相方が勧めてくれた。
二人とも本に関する本が好きなので、こういう選書が多くなる。
この本が出版されたのはもうだいぶ前のことになるけど、今回の課題図書になって初めて読むことができた。
教えてくれた相方に感謝。
まず何よりタイトルがいい。
私らはどうしても本について心配してしまう、心配しすぎているようにも思う。
それが「心配するな」と言い切られている。
本に「冊」という単位はない。あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることをくりかえしている。(p.8−9)
本に「冊」という単位はないなという風には思うようになったのは、情報検索の世界で本の目次の情報を利用しようとした話に通じる。
本はたまたま「冊」という紙の束にまとまってはいるけれど、なにも一冊単位で考えることはない。
そういう風なものの見方を獲得してから、本というものへの眺め方が変わったような気持ちになったことを思い出す。
「冊」でも「ページ」でもなく。
読んだところもすぐに忘れてしまうし、読んでないところは妄想してしまう。
本というものの実態はなかなか捉えれきれないものだと思う。
けれども本という物体には、どこか動物じみたところがある。それは生まれ、飼い馴らされ、売買されることがあっても、どこか得体の知れないところ、人の裏をかくところ、隠された爪や牙、みなぎる野生がある。(p.23)
本が動物っぽいという見方はおもしろかったけど、思えば自分も本を意思があるものみたいに感じることがある。
実は本が主体であって、それを読んだり持ち運ぶ人間が本に操られているというような感じ方。
人間が本を操っているようで、実は本が人間を操っている感じ。
そういう感覚がいつの頃からか芽生えて、その思いが消えない。
本を探し求めるというのは本に振り回されるという言い方もできるし、もとの定価以上に値段のついた古書に大枚をはたく姿なんてのは、見方によってはとても滑稽なことのようにも思える。
本は無限にある。もちろん「ほんとうの無限」ではないが、ひとりの人間の短いライフサイクルにとっては、「事実上の無限」だ。その「無限」の中から、蜜と花粉をたんねんに集めるミツバチのように、自分のための本を部屋に集めてくる。(p.252)
私たちはそういうことを分かりながらもせっせと蜜を集め続けている。
けれども本には独特の吸引力があり、一冊は必ず遠く隔たった別の一冊、二冊、三冊を知らず知らずのうちに引き寄せてしまうのだから、「無人島の一冊」的な剥奪のユートピアは、実際に無人島にみずからを拉致する勇気がなければ、とても実現することはできない境地だろう。(p.68)
本が本を連れてくる。
これはもうほんとに本というのはそういう生き物なんだなと思う。
「私」がある時そこにいることをもっとも直接的に教えてくれるのは、触覚だ。全身の肌が感じる空気の、温度、湿度、動き。この全面的な包囲は、どんなかたちでも置き換えることができないし、媒体に記録することもできない。だから「風が吹く、ゆえに、われあり」。(p.146)
たぶんこの部分の趣旨と全然違うのだけど、風を感じることと触覚について書かれたこの文章を目にして思い出したのが、ハンバートハンバートの遊穂さんのライブMC集のセリフでした。
最近つい「あーいい風」って言ってしまうけど、それってオバサンしか言わないセリフ。
という感じの言い方。
オバサンぽさを親しみを込めて笑うような言い方でしたけど、こういう前向きな表現はみんなつかえばいいのになって思ったりしました。
そうだ、いい風を感じたら「あーいい風」ってすなおに言えばいいんだ。
誰の心にとっても、未来のための最大の資源は過去です。私たちは過去に経験したさまざまなことを、「あれはどういうことだったのかなあ」とくりかえし自分に語り、自分にむかって問いながら、生きている。経験は物語化され、たぶんありのままの現実の過去とはどんどん離れ、それでもときおり生々しくよみがえりながら、私たちにつきまとう。言語とイメージの複合体としての世界を、われわれは物語と比喩によって了解しながら生きています。物語はその本性上、つねに書き換えを要求するので、新たな経験に出会うたび、われわれはその経験を物語化するとともに、これまでの自分の物語の総体を見直しています。解釈という操作は、次々に現れる新たな物語そのものが、われわれに要求しているのです。外からやってきた新たな小さな物語は、われわれの内部に住みついた物語の塊の中に、自分自身の巣穴を掘ろうとする。その小さな動物に居場所を与えてやるために、われわれはそれまで使っていた記号体系に、少しだけ変更を加える。(p.242−243)
これと似たようなことは自分も過去の「アーカイブ」と未来に対する「クリエイション」という言葉で考えていて、それと似ているようなことが既に言われていたなと気づいた部分がここでした。
物語化という創作の力。
はっとして文字を追う目の動きが遅くなった部分です。
物語というのは自分自身に巣穴を掘る。
そんな風に考えたこともなかった。
先に本は生き物と書かれていたところを引用したけれど、経験したことは物語という形で生き物となって私たちに迫ってくる。
過去が現在の私をつくっている。
自分の考えはころころ変わるけれど、それは過去の自分が選んだことによっても左右される。
過去を乗り越えるとか、過去を精算するとか、そういうのはほんとうは無理なのかもしれないとも思える。
そういうことも含めての今の自分。
いずれにせよたしかなのは、こうして文章が手渡されるとき、それはつねに解釈と翻訳を求めているということです。こういってもいいでしょう。すべての文章は、読まれたくてたまらないのだと思います。作者の意図とはまったく無関係に、そこに投げ出された文章そのののが、読まれたがっている。解釈してよ、といっている。翻訳してください、と頼んでいる。そしてそれが、現実には出会うことすらない遠い人々が「世界をどのように想像しているか」をもっともパワフルに教え、それをわれわれ自身が現在いだいているような世界の想像にとっての、脱出のための扉として提供してくれる。(p.248)
読まれたくてたまらない。
書かれたものは、読まれたくてたまらない。
そんな風に考えたことはなかったけど、こうして自分が文章を書いて公開してみると、確かに読まれたがっているとも思える。
人は「本を読みたくてたまらない」と思う一方で、本は「人に読まれたくてたまらない」と考えている(と思う)。
ここでもまた人と本の主体がどちらになるのかが入れ替わる。
自分はそういう「本を運ぶミツバチ」というイメージがとても気に入っていて、自分が集めた蜜のような本の集まりを、いつか誰かがそれを見て楽しむだろうか。
集めた本たちがどこに行くのかは決してわからないままだけれど。
この本を読んでいて、自分はひたすら本文の内容ばかりに目についていたけど、相方は詩のような見出しにたくさん言及していた。
見ているところが自分と違うなって話しながら思って、それも含めて今回のセッションはとても楽しかった。
あと『本は読めないものだから心配するな』という言い方はとてもおもしろくてそれでいて安心できるんですけど、これは自分の好きな『読んでいない本について堂々と語る方法』にも通じるとてもぐっとくるタイトルだと思う。
読んだ本の大部分が読まないのとまったくおなじ結果になっているのは、ぼくもおなじだ。(p.7)
本が読めないことに対する恐れとか悩みは、ほんとうはそういう風に感じなくてもいいのだ。安心してみたまえ。
というような根拠もなさそうな前向きな言葉をいただけたような気がしました。