本の話・19回目

10月の課題図書はこちら。

彼岸の図書館: ぼくたちの「移住」のかたち
 

 

この本のことは出版情報で知ったので、ルチャ・リブロのこともオムライスラヂオのことも知らなかった。機関誌『ルッチャ』のことも。

私設図書館というものは既にそれなりにあるので、特に青木ご夫妻の取り組みが先進事例というわけではないとは思うけれど、それでも「彼岸」とか「人文系」といった言葉を冠して、「移住」と絡めた図書館のつくり方というのはおもしろい。

 

ぼくらはそもそも「移住」って言っていなかった。あくまで「引越し」の感覚。でも外からは「移住」と言われていて、主観と客観のギャップがあったのが、ある意味おもしろかった。

引越しと呼ばずに「移住」と呼ぶというのは、やっぱりそこに特別な意味があるから。特別な意味を与えているのは、「地方創生」を掲げる国をはじめとする行政側なのかもしれないし、「移住」に憧れている一般の人たちなのかもしれない。(p.65)

「移住」という耳障りの良さげな言葉に見え隠れしている「特別な意味」というのは確かにある気がしていて、わざわざ「移住」と呼ぼうとする(呼びたがる、外野が)ということは、動く主体である自分自身の身体から出てくるような言葉ではなさそうですね。

それでいて本のサブタイトルに「移住」が入っているのが皮肉っぽくておもしろかったりするし。

 

理解しがたい状態をとりあえず理解するために、既存のラベルを急いで貼っておく、みたいなことをしなくてすむような、「意味のないもの」「役に立たないもの」があっても「よくわからないけど、おもしろい」と言えるような、そんな余白がほしかった。それは私たちが心身ともに死なずに生きていくために、必要なことだったのだと思います。(p.83)

海青子さんの言葉。この本は全体としては真兵さんの言葉が多いのだけれど、海青子さんの発した言葉がまとっている力に引っ張られる部分が目についてくる。生活も活動も共にしているご夫婦による共著というスタイルのおもしろさがあるな。

「命からがら、逃げ延びた」というセリフとか、自分たちの立ち位置を言い換えながらもすごく良く言い表している感じがする。

「鎧」(p.111)とかね。

 

人の不在は、建物を廃墟の方向へ導きます。人がいないと空間の生命力は瞬く間に落ちるのです。でも細かく考えてみると、廃墟になるほどではないけれど「睡眠」している空間は、生きている家の中でもたくさんある。お風呂なんて一日一度しか使いませんよね。入っていないときの風呂場とはどんな空間なのか。いつもと違う時間に入るお風呂には、どこか秘密基地感があるでしょう?(p.207)

光嶋さんの言う「空間の生命力」とか「対話」という言葉のつかい方がとてもよくて、この本の読後にもちゃんと残った部分でもある。

建築家の視点から世の中を眺めてみると、普段私たちが無機質なものと思い込んでいるあれもこれもが有機的に思えてくる。

 

いっそのこと、一緒にご飯を食べる人の単位を「家族」と呼んでもいいんじゃないか、と思ったことがあります。(p.232)

これはいいぞ。いろんな「家族」の形がある。

 

極端から「なんとなく」へ。ぼくたちはたぶん、この「なんとなく」の力をだいぶ甘くみています。

「なんとなく」を軽視しているから、実は誰もが感じている「もやっ」を切り捨てて、「きちっ」としたものしか信じなくなる。この習慣は人間の可能性にとって大きな障害となっています。(p.274)

余白とか余韻とか、じわっとしたところ、自分の力では制御できない部分。「なんとなく」で動くものとか、「なんとなく」のフィルターを通さないと見えてこないものとか。

「なごり」という言葉は「名残」とも「余波」とも書くことができるんだけど、「余」という漢字が含まれる書き方が好きで、もやもやっとした部分を大事にしようとするときは、「なんとなく」という態度がとてもふさわしいように思っている。

何かを余らせながら生きていきたい。

 

「いつかルチャ・リブロに行ってみようかな」と思ってくださったら幸いです。(p.283)

いつか行けたらいいですよね。おやすみなさい。