本の話・7回目

10月も忙しいと言いながら過ぎてしまった。

秋はイベントも多いからうかうかしているととどんどん空気が新しいものに変わっていってしまう。

 

今回の課題図書はこれ。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

2015年に出たときに買ってしばらく積ん読してから読み始めて、今回の課題図書になったので改めて読み返した。

 

自分自身は社会学を専攻していたわけではないのだけど、大学に入学してから「あー、こういう学問も学んでみたかったな」って後々になってから思えた学問分野の一つが社会学です。

社会学の本を読むのは自分の専門分野にも役立つところが多かったりすることもあって、今でも強い憧れがあります。

 

「断片」という言葉はなにかの一部分という意味だし、ものごとの全体像を捉えることはたぶんできなくて、社会というものの全体像はたぶん誰にもわからないから、そもそも私らは「断片」を組み合わせて世界を認識しているようにも思う。

そもそも私たちは自分の顔に張り付いた目という不自由な視点からしか世の中を見ることができないし、自分の身体の筋を目一杯伸ばしてみた指先くらいのものにしか触れることができない。

自分の専門分野もそれはそれで「断片」の集まりだ。

 

「断片」だらけの世の中とはいえ、触れることができたものは日々増えていくもので、意識的に・無意識的に私らは実にいろんなものに触れている。

 

まえがきにこう書いてある。

本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。(p.7)

「言葉にする」というのはとても厄介なもので、そのときの自分の体調とかタイミング次第で、書きたいことも書けることも変わってしまう。(このブログの記事も最初のタイミングを逃しているから、当初のものとは違う文章になっている。)

なので言葉にできるときにそれを言葉にしないといけない。

そういう風に常々思っていながらなかなか書けなのが悩ましい。

 

こんな風にも書いてある。

ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは、語りそのものになる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り物や容れ物になっているのかもしれない。(p.58) 

これは個人的な体験に限定されるものではなくて、何かの本を読んだときにも同じことが言える。

本について誰かに語るとき、本の内容が自分自身に憑依してくるような感覚がある。

「あの本にこんなことが書いてあった」と語るとき、本の著者が自分の頭に入り込んで自分が操られているような感じがする。

語りの乗り物とか容れ物になるという感覚は、歳を重ねるほどに強くなっていく感じがある。

世の中での自分自身の役割というか、ささやかながら自分が世の中に貢献できるところはなにかってことを考え始めると、見聞きしたことを自分を容れ物にしてどこかに運んでいって、また誰かの容れ物に入れていくことくらいしかできなくて、という感覚がある。

自分を語る時間を増やすとか、言葉になっていなかったことを言語化するとか、そういうことを周りの人たちと考え始めるようになってきた。

読書体験は誰かに語りたいと私は思う。

けれどそれでいて語りたいと思える相手はそんな簡単には見つからなかったりする。

乗り物・容れ物であることを自覚しながら、どこでその積み荷を下ろすのかを迷い続ける感じ。

 

次はここ。

居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、手に入れられないかのどちらかのときで、だから居場所はつねに必ず、否定的な形でしか存在しない。しかるべき居場所にいるときには、居場所という問題は思い浮かべられさえしない。居場所が問題となるときは、必ず、それが「ない」ときに限られる。(p.80)

それが問題化されるときは何かが起こってしまったとき。

注目されるようになるということは、何か異質的なものがあったり、違和感があるときだなぁとは確かにそう思う。

安住しているときにはそれをわざわざ意識しないかもしれない。

居場所の問題ということを考えると、自宅のソファを取り合って子供たちがたまに喧嘩してしまう場面を思い浮かべてしまう(本を読むのに最適なソファ)。

それとまちなかを歩いていてベンチが見つからないとき。

「その場に居たい」という欲求を形にするためには、そこにあるモノの力が大きいとも思える。

とはいえ、できれば肯定的な意味で居場所のことを語りたいとも思う。

居場所とか居心地とか、身体とともに生きているうちは常につきまとう問題である。

以前に課題図書に取り上げた『読む時間』のことを思い出す。

 

時間の話。

私のなかに時間が流れる、ということは、私が何かの感覚を感じ続ける、ということである。たとえば、私のなかに十年という時間がすぎる、ということは、私が十年間ずっと、何かの感覚を感じ続ける、ということである。もちろんそれは、苦痛ばかりとは限らない。生きるということは、何かの感覚を感じ続けることである。

ある人に流れた十年間という時間を想像してみよう。それは、その人が十年間ずっと、何かの感覚を感じ続けているのだろう、と想像することである。私たちは、感覚自体を何ら共有することなく、私たちのなかに流れる時間と同じものが他の人々のなかにも流れているということを、「単純な事実として」知っている。(p.142)

時間は誰にも同じように流れ続けている、はずである。

けれども時間の長さはそれぞれに違っていて、同じような長さに感じる時間は存在していないとも思う。

時間はとても個人的で感覚的なものだと思うから、私の10年とあの人の10年はきっと違う10年になってしまう(数値としては同じでも)。

大人になってからの1年間と、子供の頃の1年間が全然違った流れに感じてしまうように。

 

相棒は「知り合ってなかった時間」のことを言っていた。

お互い知らないままで知りあってなかった時間のほうがはるかに多いはずなのに。

私自身も同じように感じていて、古くからの知り合いのような感覚もあって、そういう絵本みたいに「今までどこに隠れていたの?」という気持ちになってしまう。

「私たちは、感覚自体を何ら共有することなく」と言われているけれど、それははたしてほんとうだろうか?

知らなかった時間にも共有できたものがきっとあるような気もしている。

 

半分とどれくらいかの時間が過ぎて、歳をとってきている。

時間の流れ方は体感としてどんどん早くなっている。

いつの日か、相棒とも知り合って以降の時間のほうが長くなる日が来るわけだけど、その日がとても待ち遠しいとも思う。

 

文化とは。

「良い社会」というものを測る基準はたくさんあるだろうが、そのうちのひとつに、「文化生産が盛んな社会」というものがあることは、間違いないだろう。音楽、文学、映画、マンガ、いろいろなジャンルで、すさまじい作品を算出する「天才」が多い社会は、それが少ない社会よりも、良い社会に違いない。

さて、「天才」がたくさん生まれる社会とは、どのような社会だろうか。それは、自らの人生を差し出すものがとてつもなく多い社会である。(p.199)

自分は比較的若い人に関わる仕事をしているのだけれど、年々わからない(理解できない)ことが増えていっている。

手に負えないような感覚、自分とは別世界のことのように見えるものが増えていくような感覚がある。

自分自身の専門の仕事は、内容としては洗練されてはきているけれど、それがどういう風に彼らに伝わるのかということが少しずつぼやけてきているようにも思える。

世界(大きい主語)はとてもぼやけて見えるし、遠くまで見えない。

かといって、手元もはっきりと見えなくもなってきている。

それでも今自分はここにいる。

残りの時間を考えると、できることはきっとそれほど多くはない。

良い社会に近づけるような仕事をしたいと思う。

 

 

相棒は「表紙とかの写真がいいよね」と言っていた。

言われてなるほどなって思う。

どこにでもあるような普通の風景写真しかないけれど、それはそれでこの本らしさがある。

切り取られた風景の味気なさ。

味気ない「断片」の世界。

 

私自身も「断片」の世界。