本の話・15回目
しばらく更新をさぼってしまった。
今更ながら6月の課題図書はこちらでした。
- 作者: デカルト,Ren´e Descartes,谷川多佳子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/07/16
- メディア: 文庫
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あわせて訳者の谷川さんのこちらも読みました。
お互いの年齢に近かったから(執筆当時のデカルトの年齢が)ということで、相棒が選んでくれた本です(ここ最近は特に年齢を意識する機会が増えた)。
学生時代に買って読んだことは覚えてはいたものの、内容をすっかり忘れてしまっていた。再読するのにちょうどいいタイミングが来たということなんだろう。
本棚のどこかに埋もれているような気がしたけど、探し出せなかったのでセッションのために書い直した。
順番が違ってしまうような気がしたけど、なんとなく『デカルト『方法序説』を読む』から読み進めた。
著者がその本を執筆したときの事情とか背景を知れることは、それほど多くはない。
解説書を読むと、本というものは、簡単にはまとまらないものだということが分かる。
『方法序説』を読み返すと、学生時代に読んだときはまったく理解できてなかったなとも思えるし、今こうして読み返してみて理解できたのかというとそれもはっきりとは言い切れない。
さまざまな民族の習俗について何がしかの知識を得るのは、われわれの習俗の判断をいっそう健全なものにするためにも良いことだし、またどこの習俗も見たことのない人たちがやりがちなように、自分たちの流儀に反するものはすべてこっけいで理性にそむいたものと考えたりしないためにも、良いことだ。けれども旅にあまり多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう。(p.14)
本を読むことに時間を費やすことはいいことだとは思う。思っている。
けれども、本を読むことで生じてくる現実世界とのズレというものは、簡単に言葉にできるものではなかったりもする。
「異邦人になってしまう」のも決して悪いことではない。が、以前と同じように呼吸ができたり、地面をしっかりと踏みつけることができるのかはわからない。
同じところに立っているようで、見え方が変わってしまう。
デカルトは知識を得ることを「旅」に見立てていて、特に長期の「旅」に注意を払うような言い方をしているけれど、自分の国で「異邦人」になるというのも境界線がはっきりしないものようにも思える。
いわゆる国境を超えるというのは異邦人としての立ち位置に立たせてくれるけれど、自国であっても文化が異なっていたりするわけなので、いろんな人と交わることで自分自身が変わらざるを得ない状況になったりする。
昔の自分を振り返ると、昔の自分の眼を想像してみると、今の自分は既に異邦人になっている気がする。
どういう大人になりたいとか、理想とかもいちいち考えることもなく、何がしたいのかを考えているふりをして、ただただそのときの気分で行き先を決めてきた先に今の自分がいる。
わたしは、真らしく見えるにすぎないものは、いちおう虚偽とみなした。(p.16)
「真」でも「偽」でもない「真らしさ」という捉え方が良くて、そしてそれを「いちおう虚偽とみなす」と位置づける態度がおもしろい。「らしさ」と「いちおう」という認識が思索の世界に連れて行ってくれている。
だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、確信をもってこの人生を歩むために、真と偽を区別することを学びたいという、何よりも強い願望をたえず抱いていた。(p.18)
書物の学問、少なくともその論拠が蓋然的なだけで何の証明もなく、多くの異なった人びとの意見が寄せ集められて、しだいにかさを増してきたような学問は、一人の良識ある人間が目の前にあることについて自然〔生まれながら〕 になしうる単純な推論ほどには、真理に接近できない、と。(p.22)
学問をする上で「真理に接近する」ことは当然求められることではある。いろんな意見をあちこちから集めてきて、それらについて検討することが思考の癖のようにもなってしまっているけれど、果たしてそれは真理に近づいたりするのだろうか。そこをまず疑ってかかる。
自分自身が果たして「良識ある人間」なのかは怖くて断言できないけれど、思考を単純化するところを目指そうとするならば、「寄せ集める」というよりは「単純な推論」というアプローチが確かに有効なようにも思えてくる。
真理とは。
第三部に「格率」というものが書かれている。(p.34〜39)
- わたしの国の法律と慣習に従うこと。
- 自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと。
- 運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること。
- この世で人びとが携わっているさまざまな仕事をひととおり見直して、最善のものを選びだすこと。
2番目の格率の説明のなかで次のように述べる。
われわれがどの意見にいっそう高い蓋然性を認めるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めたあとはその意見を、実践に関わるかぎり、もはや疑わしいものとしてではなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない。われわれにそれを決めさせた理由がそうであるからだ。そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである。(p.37)
一度決めたことを真実度の高いものとみなすことは怖くもある。考えはころころ変わりがちなのに、変えずに信頼する。デカルトは「解放された」って言ってるけど、そういう風に自分自身の身体を思っていたとおりに動かし続けることができたら確かに楽だろう。
デカルトは「望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ」(p.37)とも述べている。
確かにどこかに行き着くことは大事なことだと思える。一応の答えが見つかる。「良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから」の解放。
後悔は絶えず自分に向かって押し寄せてくる。それから解放されることは確かに楽なことだろう(簡単ではないけれど)。
決めたことに一貫して従うことというのはとても強い。選択はいつでも間違っていそうな余地を残している顔をしている。
わたしの思想を伝えることで、ほかの人びとが受けるだろう利益についていえば、これもまたたいしたものではありえない。なぜかというと、わたしはそれらの思想をまだそんなに深く進めてはいないので、実地に応用するまえに、なおたくさんのことを付け加える必要があるからだ。そしてもしそれをできる者がいるとすれば、それはほかならぬこのわたしであるはずだと、自惚れることなく言うことができる。それはこの世に、自分とは比べものにならないほどすぐれた精神の持ち主がそう大勢いるはずがないということではなく、ほかの人から学ぶ場合には、自分自身で発見する場合ほどはっきりものを捉えることができず、またそれを自分のものとすることがでいないからである。(p.91)
自分の見たこと考えたこと、発見したこと。それは自分自身が一番良くわかっている。
もっとも良く「自分のものとする」ことができるのは、自分自身で発見した場合である。もちろん他者の本や思想から学べることもある。しかし、どこまで学ぶことができるのかと考えると、もともとの発見者にはかなわない。中身は変質する。
私は自分の見解のいくつかを、ひじょうにすぐれた精神の持ち主に説明したことが幾度もあるが、かれらはわたしが話している間はきわめて判明に理解したように見えたにもかかわらず、それをかれらがもう一度述べる段になると、ほとんどいつも、もはやわたしの見解だと認めることができないほど変えてしまっていることに気がついたのである。( p.92)
人は他人の考えをそのままもとのアイデアのとおりに受け取ることができない。誰かに渡した段階でその内容は変質する。
たった一度の直接的な受け渡しですらズレが生じてしまうなら、自分自身の考えをそっくりそのままの意味で正確に後世に伝えるのは無理な話になる。
ただ、そのズレも受け手ごとに多様であって、そのズレたちこそが解釈に豊かさを生み出しているということでもある。
デカルトは「わたしはそれらの思想をまだそんなに深く進めてはいない」とも述べていたが、思想を深くする作業は時間との戦いでもある。自分が見出した発見したことについて、どこまで深く潜っていくことができるのか。
わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である。(p.48)
どこまで行っても「捉える」作業が必要だ。考えることが必要だ。
私は何を捉えている?