本の話・9回目
なんとなく自分たちの若い頃のことを語りたくなった。
自分の過去を振り返る作業は楽しくもあるし、苦しくもある。
今の自分の立っている場所の意味を確認することでもあるけれど、「今の自分にはならなかった可能性」にもつい思いを寄せてしまう。
「私とは何か」を語る言葉は、過去を振り返るところから導き出されてしまう。
必然の結果として今があるのか、偶然のできごとの延長として今があるのか。
絶えず生活の過程にいる自分には、それはなかなかわかるものでもない。
いらないものが増え続けるのならば、せめて本当に必要なものを取捨選択できるくらいは覚えていたい。そのためにはかつてわれわれには何がなく、代わりに何があったのかを思い出す必要がある。(p.16)
帯には「スマートフォンのない時代へ」とある。
あの時代に見てきたことはほぼ肉眼の世界で、今思い出せる90年代のできごとは断片ばかり。
それでも思い出さなければ、今の自分に必要なものもわからない。
それがわかりたい。
それがわからなくてもなんとなく生きてはいけてしまうのだけれど、生きることを積極的に意識してもいいような歳にもなってきている、
それだけの時間が既に自分の身体を通り過ぎてしまっている。
生きる感触をつかめないままになんとなくで過ごしたくはないし、自分に残されている時間を考えると、振り返るタイミングをつかんでおきたいとも思う。
出会ったことのない過去の音楽は等しく新しい音楽であり、どのように並べるかでその意味を定義し直すことができる。先輩のように知識も経験もない自分にとっては、上の世代に対抗すべき手段として、「こういう聴き方だってありますよ」と提案する、編集行為こそが唯一の武器だった。(p.33)
60年代とか70年代とか80年代とか、そういう時代に思春期を過ごすことができなかった90年代の人たち。
真心ブラザーズや斉藤和義も「テレビのなか」の人たちとして映ってしまう。
そういう自分たちが遡る音楽を「等しく」「新しく」見つめて、「編集」という行為に出ていく、そしてそれを「武器」と呼べる。
「遅れた」ことは事実だけど、それは「新しい」と解釈もできる。
古い本も最新刊もはじめて出会う人にとっては新刊と同じ。(p.33−34)
古典ですらもそれを読む自分にとっては新しく出会った未知の知。
出会えなかった過去を思うよりも、これから出会う未来を楽しむことを考える。
流行りのジャンルやベストセラーを追いかけるわけではなく、俯瞰し、関係性や組み合わせの面白さを追求し続ければ、その店は時代とともに消費されることもないはずだ。そんな視点を与えてくれたのは、過去の音楽がつねに新しいものと共にあり、センスが知識に拮抗した、九〇年代というエアポケットのような時代だった。(p.34)
強い思い入れが足りない分、編集も軽やかに思いのまま。
それは確かに私たちの武器でもある。
過去の情報を引用し、並べ替え、別の意味をもたせる「編集」こそがクリエイティブな行為であるという発送の転換。それは音楽だけでなく他の分野にも応用できる「発明」だった。(p.99)
自分の思考のクセを考えてみると、モノや情報を「集める」「揃える」「一覧にする」ということをやりがちで、とにかくものごとの全貌を俯瞰して眺めたい気持ちに駆られる。
そのなかに染まらない、一歩引いた場所で見てみたい。
断片から何かを語るのではなく、全貌からそれを見ていたい。
ゴールの位置を確認してからスタートする迷路のような、アイテムの出現場所を先に知っているような。
生活必需品ではなく、なくても生きていける嗜好品を扱う空間である限り、喫茶店も居酒屋も文化的な場所である。文化的な空間は時間をかけることなく資本だけで作れるものではないし、良し悪しについて簡単に評価できるものでもない。(p.50)
「嗜好品」という言葉が好きになったのは、20代後半になった頃だったように記憶しているし、それを自分の言葉としてつかうようになったのは、それこそごく最近のできごとのようにも思う。
「文化的とは何か」を語る切り口として、「嗜好品」という観点があることに気づいたのは堀部さんの文章の影響によるもので、「なくてもいいけどあったほうがいい」という感覚はとても大事なことのように思えてくる。
「生活必需品以外のものごとに自分の時間をどれだけつかうことができるか」はしっかりと意識したほうがいい。
そういった嗜好品の時間をどれだけ手に入れられるのか、一日の時間のなかで逆算できてしまうくらいに日常が忙しなくなってしまっているのが現実なわけだけど、嗜好に手を伸ばすことは止められそうにもない。
どこで購入しても同じ複製品である本は、一方で並べ方によって見え方が変わる存在でも在る。誰もが求めるものを揃えるのではなく、見過ごされがちなものに価値を与えること。その価値づけは、「すべてある」ことではなく「あるはずのものがない」ことによってしか生まれないのだ。(p.132)
そこにないことが価値を生むという逆説的な本の世界。
そこにないからこそ心に引っかかる。
あるべきものをあらかじめ用意するよりも、そのための場所に別の何かを引っ張り込んできてそこに座らせてしまう。
あるべきものの場所に別のものを居座らせる。
それは明確な意思があって初めて実現可能なものである。
しかるべき法則を外れることとか、当然そうあるべきという外からの圧力からできるだけ自由になることとか。
それは過去の文脈を理解した上で外していくこともできるし、王道的な文脈をそもそも知らないからこそできることもあるだろう。
「あるはずのものがない」ことに価値を見出すという観点の変換。
「何を置くか」ではなく「何を置かないか」は、今も自分の店の商品構成を考える上で基本姿勢になっている。(p.41)
「何を置かないか」ということは、「あるはずの場所に期待したものとは別のものが置かれている」という状態でもある。
「期待したものを置かない」ということは、その空白に別のものが入り込んでくる余地があることでもある。
そもそもそういった期待は、すべて過去からやってくる。
日本文学のコーナーになぜ大江健三郎を置いていないのか。哲学書棚にドゥルーズもおいていないようでは駄目だ。なぜ料理書のコーナーがないのか。あの棚は前の担当のほうが良かった。(p.131)
膨大な過去の蓄積は、あるべき姿を求め続けて一定の型に収束していくようにも見える。
とすると新しい未来を描くとは、過去から押し寄せる力をひらりとかわしながらタッチしていく作業のようだ。
そのときその場所で、自分の指先で確かに触れることができるものを。
街へ出て自分の足で面白いものを見つけること。雑誌やテレビから受動的に情報を得ること。そうやって集めてきた情報を編集し、新しい価値を見出すこと。マスメディアの向こう側に同時代を生きる大衆の姿を知ること。ぼんやりと無為に過ごしたように思っていたあの時代に得たものは少なくない。(p.139)
新しい価値を見出すのは難儀な仕事でもある。
果たして自分は新しい価値を見出すことができているのだろうか。
振り返ってみると、考え方はどんどん変わっていってしまうようにも思えてくるし、気がつくと自分の考え方があの頃と別物になっていると思える瞬間もある。
それでも、自分の今のものさしは、確かに90年代に得てきたものばかりのように思える。
それはあの頃の自分が「持てなかったもの」の影響が大きいようにも思う。
田舎育ちの自分は、都会で育った人よりも、そういう満たされなかった感覚は大きい気もしていて、「スマートフォンのない時代へ」どころか、自分には「ガロ」も「レンタルビデオショップ」もなかった。
改めて、あの頃の自分には「なかったもの」に目を向けてみたい。
あの頃の自分のそばに「あったもの」はいったい何だったけかな?