本の話・22回目

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記憶する体

記憶する体

  • 作者:伊藤 亜紗
  • 発売日: 2019/09/18
  • メディア: 単行本
 

 

ここしばらく身体的なところに興味を持っている。

それは「読書をする身体」「読書をするための身体」というところからの関心の持ち方で、結局のところ本を読むには身体的な影響もとても強いと感じているからだ。

また、体そのものをそういうものとして眺めていくと、この本のタイトルにもなっている記憶というキーワードにも関心が向くようになる。

タイトルに惹かれて即座に注文をした本である。

 

書くというのは行為というより出来事みたいなものかもしれません。予定通り、思い通りには決して進まない。波に乗れるか乗れないかは自分のコントロールの及ばないところで決まります。ほとんど賭けのような感覚です。(p.2)

書くことについて、それを行為ではなく出来事とちょっと自分の体から突き放しているようなものの見方がおもしろい。でも確かに自分のなかから出てきているはずなのに、自分がどうにかしているものでもない気もしてくる。

このブログの文章だってそうかもしれない。

そう思えるとちょっと気が楽になれる。

 

周囲を近くするにしても、自分の感覚で情報を得て構成するのではなく、介助者の言葉によって世界が作られるようになります。見えない人を守るための保護膜であったはずの介助者の言葉が、見えない人を世界から切り離す隔離壁になるのです。(p.44)

学生時代に本を濫読していた頃、なんかふと「言葉の無力さ」みたいな感覚を覚えたことがある。本はそれまでと変わらずに読み続けているのに、言葉のなかに埋もれてしまう感じ。言葉の力を感じなくなったことがある。

あの頃の自分が本の中の言葉に頼りすぎていたのか。身体が浮ついた感じになったのだった。

言葉によって世界から切り離される感じ。

振り返ってみてもああいう感覚はあの時期だけだった。

隔離壁。見えない壁。

 

記憶は過去のものですが、現在を理解するための手がかりになります。だからこそ、記憶は伝播する。ある経験が、それを経験していない者によって使われるのです。(中略)ひとつの体が持つ物理的な輪郭を超えて、ある人間から別の人間へと、記憶が伝わるということがある。それは文化の領域です。(p.116)

 「集団的記憶」について書かれた部分の一節。個人が得た記憶が社会のなかで生かされていくという仕組みに気づくというのは、自分の生き方を少し変えていくと思うんですよね。

自分だけがとか、自分だったらというような世の中への接し方が、自分の痕跡がどこかに残れば、という思いに変わっていく。

文化、という言葉が使われているけれど、それは記憶を残してくれる社会に対する信頼感だったりするのではないかという気もしている。

自分ではない誰かが。

自分の体というものの輪郭ははっきりしているようで、でもぼやけている部分もあるんだな。

 

このように読書は、ときとして、書き手と読み手のあいだの体の違いを、明瞭にあぶりだす機会になります。(中略)一方で読書は、書き手の体と読み手の体を、「混じり合わせる」場にもなります。自分と違う体について知る経験が読み手に蓄積された結果、その体が「インストール」されるようなことが起こるのです。(p.126)

書く人と読む人の違いを身体的な側面から指摘したこの部分。

読書というものを知識を増やすというようなニュアンスで「インストール」という捉え方で考えたことはあったけれど、「混じり合わせる」という感覚のほうがしっくりくる気もする。

本を読んで何かが「増える」というよりは、それまで持っていた知識が「変質する」というほうがいい。

知識の総量が増えるというより、細分化されてしまったというような。

 

一人の人のなかで悩みの原因は複雑に絡みあっています。だから、「○○の当事者」というふうに固定することはできない。病や障害の肩書きを持つことが当事者ではありません。「ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる」のです。(p.226

当事者とはだれもがその立場になりうるもの。

そのときに「ニーズを持ったとき」という要件を設定しているのがおもしろい。

誰もがかけがえのない人生を過ごしている、みたいなぼやっとした意味での当事者ではなく、明確に「ニーズを持った」と言い切ってしまう。

ニーズがあれば動かざるをえない。自分事として。

この本のなかでは自分の体というものを中心に語っているけれど、それだけじゃないな。

自分の体を離れたニーズというものもある。

自分の体を客観視して、その体をどこにどうやって運んでいくことができるのかを考える。

当事者という言葉は結構遠くまで届くような言葉だったりするわけだ。

 

つまり、○○であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごした「時間」こそが、その人の身体的アイデンティティを作るのではないか。そう思うのです。(p.269)

これはほんとうにいい言葉だ。

自分の体というものを考えたとき、たしかに生まれたときからその体を引き受け続けて、よくも悪くもその体から逃げることができない。

いろんな言葉、いろんな価値観、いろんな関係、いろいろある。それらを積みかねてきた「時間」の厚みが私をつくっている。私の体と記憶は時間でできている。

 

私の時間の一部になった読書体験。

いい本でした。