本の話・22回目

今月の課題図書はこちら。 

記憶する体

記憶する体

  • 作者:伊藤 亜紗
  • 発売日: 2019/09/18
  • メディア: 単行本
 

 

ここしばらく身体的なところに興味を持っている。

それは「読書をする身体」「読書をするための身体」というところからの関心の持ち方で、結局のところ本を読むには身体的な影響もとても強いと感じているからだ。

また、体そのものをそういうものとして眺めていくと、この本のタイトルにもなっている記憶というキーワードにも関心が向くようになる。

タイトルに惹かれて即座に注文をした本である。

 

書くというのは行為というより出来事みたいなものかもしれません。予定通り、思い通りには決して進まない。波に乗れるか乗れないかは自分のコントロールの及ばないところで決まります。ほとんど賭けのような感覚です。(p.2)

書くことについて、それを行為ではなく出来事とちょっと自分の体から突き放しているようなものの見方がおもしろい。でも確かに自分のなかから出てきているはずなのに、自分がどうにかしているものでもない気もしてくる。

このブログの文章だってそうかもしれない。

そう思えるとちょっと気が楽になれる。

 

周囲を近くするにしても、自分の感覚で情報を得て構成するのではなく、介助者の言葉によって世界が作られるようになります。見えない人を守るための保護膜であったはずの介助者の言葉が、見えない人を世界から切り離す隔離壁になるのです。(p.44)

学生時代に本を濫読していた頃、なんかふと「言葉の無力さ」みたいな感覚を覚えたことがある。本はそれまでと変わらずに読み続けているのに、言葉のなかに埋もれてしまう感じ。言葉の力を感じなくなったことがある。

あの頃の自分が本の中の言葉に頼りすぎていたのか。身体が浮ついた感じになったのだった。

言葉によって世界から切り離される感じ。

振り返ってみてもああいう感覚はあの時期だけだった。

隔離壁。見えない壁。

 

記憶は過去のものですが、現在を理解するための手がかりになります。だからこそ、記憶は伝播する。ある経験が、それを経験していない者によって使われるのです。(中略)ひとつの体が持つ物理的な輪郭を超えて、ある人間から別の人間へと、記憶が伝わるということがある。それは文化の領域です。(p.116)

 「集団的記憶」について書かれた部分の一節。個人が得た記憶が社会のなかで生かされていくという仕組みに気づくというのは、自分の生き方を少し変えていくと思うんですよね。

自分だけがとか、自分だったらというような世の中への接し方が、自分の痕跡がどこかに残れば、という思いに変わっていく。

文化、という言葉が使われているけれど、それは記憶を残してくれる社会に対する信頼感だったりするのではないかという気もしている。

自分ではない誰かが。

自分の体というものの輪郭ははっきりしているようで、でもぼやけている部分もあるんだな。

 

このように読書は、ときとして、書き手と読み手のあいだの体の違いを、明瞭にあぶりだす機会になります。(中略)一方で読書は、書き手の体と読み手の体を、「混じり合わせる」場にもなります。自分と違う体について知る経験が読み手に蓄積された結果、その体が「インストール」されるようなことが起こるのです。(p.126)

書く人と読む人の違いを身体的な側面から指摘したこの部分。

読書というものを知識を増やすというようなニュアンスで「インストール」という捉え方で考えたことはあったけれど、「混じり合わせる」という感覚のほうがしっくりくる気もする。

本を読んで何かが「増える」というよりは、それまで持っていた知識が「変質する」というほうがいい。

知識の総量が増えるというより、細分化されてしまったというような。

 

一人の人のなかで悩みの原因は複雑に絡みあっています。だから、「○○の当事者」というふうに固定することはできない。病や障害の肩書きを持つことが当事者ではありません。「ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる」のです。(p.226

当事者とはだれもがその立場になりうるもの。

そのときに「ニーズを持ったとき」という要件を設定しているのがおもしろい。

誰もがかけがえのない人生を過ごしている、みたいなぼやっとした意味での当事者ではなく、明確に「ニーズを持った」と言い切ってしまう。

ニーズがあれば動かざるをえない。自分事として。

この本のなかでは自分の体というものを中心に語っているけれど、それだけじゃないな。

自分の体を離れたニーズというものもある。

自分の体を客観視して、その体をどこにどうやって運んでいくことができるのかを考える。

当事者という言葉は結構遠くまで届くような言葉だったりするわけだ。

 

つまり、○○であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごした「時間」こそが、その人の身体的アイデンティティを作るのではないか。そう思うのです。(p.269)

これはほんとうにいい言葉だ。

自分の体というものを考えたとき、たしかに生まれたときからその体を引き受け続けて、よくも悪くもその体から逃げることができない。

いろんな言葉、いろんな価値観、いろんな関係、いろいろある。それらを積みかねてきた「時間」の厚みが私をつくっている。私の体と記憶は時間でできている。

 

私の時間の一部になった読書体験。

いい本でした。

本の話・21回目

今月の課題図書はこちら。

どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜
 

 

読むにつれて紙質がどんどん変わっていくのがおもしろい本だ。

富山にはだいぶ前にちょっとだけ訪れたことがある。魚がおいしかった。

 

「あんたは愛想ばっかり振りまいとって、本心を誰にも見せようとせん。人を信じれん人間なが。自分に自信がないから人のことも信じれんが。そんなんで生きていけるんかと思って、お母さんね、本当に心配しとる」(p.60)

「私は自分で自分のことを信じてるわよ。だって、信じるしかないじゃない」(p.78)

「信じる」とか「自信」とか、「信」という言葉を普段の生活のなかで誰かに言うことってそんなにない。

平凡に日々を暮らそうと思ったり、実際に何事もない暮らしをしていると特にそうだ。

それでもごくたまに「信」の瞬間が訪れる。誰かに。自分にも。

人生の節目節目で、それまでの生き方を少し見直してみたくなる瞬間が向こうからやってくる。

 

「今、生きているこの場所を、どこまで面白がれるか」(p.84)

「何かやってダメになるとすぐに失敗したとかいうけどね、成功しなかっただけで失敗はしとらんのですよ! 物事には必ず長所と短所がある。1%でも長所が上回ればGOですよ! 高い壁の話ばっかせんと、前向きな話をせんといかんです」(p.88)

会話文のセリフがいちいち引っかかってくる。次々に登場してくる人たちの投げかける言葉の触り方がすごい。

「そこで何をするのか」をできるだけ前向きな言葉で語る。できる限り誠実に。

GOですよ!

そうか、GOなのか。だよな。

 

「本を作るのがおこがましいって言うけど、あんたはもう既におこがましいが。人に何かを伝えたいって思っとる時点で、おこがましいが! そのことをそろそろ受け入れられ。そして恥をかけ!」(p.118)

母は「おこがましい」をこんな短いセリフで3回もぶつけてくる。瞬発的に。

これは惹かれる。迷うこととか動きづらいこととか動けないこととか、自分を受け入れられない自意識を刺激してくることとか、それらを「おこがましい」と言い切ってもらえたら。

そして「恥をかく」ことを進められる。「恥ずかしい気持ちを忘れるな」とも言われる。

「恥ずかしい気持ちを忘れない」ことと「恥をかく」ことは違う。「恥をかいた」ことはきちんと自覚しないければ、「恥ずかしい気持ち」を保つこともできない。

恥を自覚して、恥の気持ちを忘れない。

生きていくことの難儀さとか、その都度ごとに選択したことの良し悪しとか、その延長にある今の置かれた状況とか、恥とともにある。

こういうセリフを母から引き出している藤井さんの存在感はほんとすごい。

 

「文化や芸術というものは、理性や論理では語れないと思います。ダメで、偏愛的で、マイノリティだったりする。だからこそ、それを受け入れる図書館や美術館には、公共性が必要だと思います。それは観光資源化という意味ではない」(p.202)

藤井さんの周りにいる人たちの価値観に感心させられる。読み進めながら、それを書き残している藤井さんという存在にも感謝したくなる。

地域のこととか地方のこととかを考ようとする風潮があって、ここしばらくいろんな角度からいろんなことが言われてきたとは思うけれど、突っ走っている藤井さんの周りの人たちのさりげないものの見方がこの本の魅力を高めている。

藤井さんという人を通して見えるもの。

 

自分探しの着地点は、不惑の四十になってもいまだ見つからないが、それでも気づいたことがある。それは、私という人間は確固たる自我があるわけではなく、今まで出会ってきた人たちで形成されているということだ。誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられることに、どうしようもなく不安になっても、この地に生きる人たちと関わろうとする気持ちが萎えることはない。それだけは、ピストン藤井としても、藤井聡子としてもブレない事実だった。自分が何者なのかは、他者を見ればわかる。(p.211)

この本を読んでいて、いろんなところが引っかかりながらも、印を付けたところは藤井さんの周りの人たちのセリフが多かった。

藤井さん自身の地の文で一番よかったのは最後のあたりのここの部分。

他者を見ればわかる。

私も誰かを構成する「何者か」の一人になっている。そのことを確認させてもらえてよかった。

そういう思いとともに、私も「この地」に生きることができる。

 

いい本だった。

本の話・20回目

11月の課題図書はこちら。 

PUBLIC HACK: 私的に自由にまちを使う

PUBLIC HACK: 私的に自由にまちを使う

  • 作者:笹尾 和宏
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

この本はタイトルもいいけど、サブタイトルもいい。

「チェアリング」とか「流しのこたつ」とか、そういう活動に名前がつけられるのがおもしろい。小道具をまちのなかに持ち込んでいるだけなのに、そこに「まちを使う」という現象がしっかりと見えている。

コミュニティだとかの話になると、「環境を整える」みたいに人間の周辺のことを変えていく発想になりがちだけれども、人間自身がまちの認識を変えていく視点を身に着けていくことでも、十分おもしろいことができるのだなぁと思える。

そのための方法とか道具が並べられていて、とても刺激がある。

 

PUBLIC HACKが根づくには、何よりもまず「私的に自由に使ってもいいんだ」という余地を感じられることが大切です。それには、管理者が利用者を見守り、支える視点が重要となるわけですが、公民連携が導入され、民間事業者が行政に対する然るべき責任意識のもとで管理運営を行っている場所では、市民が気軽に関わりにくい雰囲気になってしまいます。(p.143)

「人を集める」「モノを買わせる」といった集客・購買を促す活動に対して、「私的に自由に使ってもらう」というのは、使わせたい側(管理者)が何か手を打って実現できるものではなく、環境・条件を整えて見守り支えるものです。(p.144)

 

「何かその場所のためにできることがある」と実感した時、そこが自分の場所になるのです。(p.173)

コミュニティの問題なんかを語ろうとすると、「関わる」とか「自分ごと」とか「自分たちごと」とか、いろんな言い方がされるようになるけれど、「自分の場所」というところを目指そうとするならば、「(自分が)できること」という視点は重要になる。

パブリックという言葉はなんだか重々しく感じられるような文脈でつかわれることも多いのだけれど(自分の身体も含まれながらも自分の意思ではどうにもならない感じ)、「自分ができること」という気軽さでもってまちを眺められたら、それはとても楽しい。

 

バンクシーのメッセージもいい。

It's always easier to get forgiveness than permission.(p.98)

いい。

 

既存の制度の問題点を指摘しているところだとか、それでもそれを塗り替えていこうという姿勢だとか、日常の暮らしはそこまで大きく変えられなくても、毎日眺めている同じ景色が少しだけ違ってくる予感がある。まちとの関わり方や自由さを知ることで、ずいぶん生きやすく暮らしやすくなるんじゃないかと思った。

 

この本を読んでみて、とりあえず「クランピング」の材料を買いに行こうと思っている。

ただ単に「まちにいる」ことがもっと気軽になるように。

本の話・19回目

10月の課題図書はこちら。

彼岸の図書館: ぼくたちの「移住」のかたち
 

 

この本のことは出版情報で知ったので、ルチャ・リブロのこともオムライスラヂオのことも知らなかった。機関誌『ルッチャ』のことも。

私設図書館というものは既にそれなりにあるので、特に青木ご夫妻の取り組みが先進事例というわけではないとは思うけれど、それでも「彼岸」とか「人文系」といった言葉を冠して、「移住」と絡めた図書館のつくり方というのはおもしろい。

 

ぼくらはそもそも「移住」って言っていなかった。あくまで「引越し」の感覚。でも外からは「移住」と言われていて、主観と客観のギャップがあったのが、ある意味おもしろかった。

引越しと呼ばずに「移住」と呼ぶというのは、やっぱりそこに特別な意味があるから。特別な意味を与えているのは、「地方創生」を掲げる国をはじめとする行政側なのかもしれないし、「移住」に憧れている一般の人たちなのかもしれない。(p.65)

「移住」という耳障りの良さげな言葉に見え隠れしている「特別な意味」というのは確かにある気がしていて、わざわざ「移住」と呼ぼうとする(呼びたがる、外野が)ということは、動く主体である自分自身の身体から出てくるような言葉ではなさそうですね。

それでいて本のサブタイトルに「移住」が入っているのが皮肉っぽくておもしろかったりするし。

 

理解しがたい状態をとりあえず理解するために、既存のラベルを急いで貼っておく、みたいなことをしなくてすむような、「意味のないもの」「役に立たないもの」があっても「よくわからないけど、おもしろい」と言えるような、そんな余白がほしかった。それは私たちが心身ともに死なずに生きていくために、必要なことだったのだと思います。(p.83)

海青子さんの言葉。この本は全体としては真兵さんの言葉が多いのだけれど、海青子さんの発した言葉がまとっている力に引っ張られる部分が目についてくる。生活も活動も共にしているご夫婦による共著というスタイルのおもしろさがあるな。

「命からがら、逃げ延びた」というセリフとか、自分たちの立ち位置を言い換えながらもすごく良く言い表している感じがする。

「鎧」(p.111)とかね。

 

人の不在は、建物を廃墟の方向へ導きます。人がいないと空間の生命力は瞬く間に落ちるのです。でも細かく考えてみると、廃墟になるほどではないけれど「睡眠」している空間は、生きている家の中でもたくさんある。お風呂なんて一日一度しか使いませんよね。入っていないときの風呂場とはどんな空間なのか。いつもと違う時間に入るお風呂には、どこか秘密基地感があるでしょう?(p.207)

光嶋さんの言う「空間の生命力」とか「対話」という言葉のつかい方がとてもよくて、この本の読後にもちゃんと残った部分でもある。

建築家の視点から世の中を眺めてみると、普段私たちが無機質なものと思い込んでいるあれもこれもが有機的に思えてくる。

 

いっそのこと、一緒にご飯を食べる人の単位を「家族」と呼んでもいいんじゃないか、と思ったことがあります。(p.232)

これはいいぞ。いろんな「家族」の形がある。

 

極端から「なんとなく」へ。ぼくたちはたぶん、この「なんとなく」の力をだいぶ甘くみています。

「なんとなく」を軽視しているから、実は誰もが感じている「もやっ」を切り捨てて、「きちっ」としたものしか信じなくなる。この習慣は人間の可能性にとって大きな障害となっています。(p.274)

余白とか余韻とか、じわっとしたところ、自分の力では制御できない部分。「なんとなく」で動くものとか、「なんとなく」のフィルターを通さないと見えてこないものとか。

「なごり」という言葉は「名残」とも「余波」とも書くことができるんだけど、「余」という漢字が含まれる書き方が好きで、もやもやっとした部分を大事にしようとするときは、「なんとなく」という態度がとてもふさわしいように思っている。

何かを余らせながら生きていきたい。

 

「いつかルチャ・リブロに行ってみようかな」と思ってくださったら幸いです。(p.283)

いつか行けたらいいですよね。おやすみなさい。

 

 

本の話・18回目

9月分の課題図書はこちら。

迷うことについて

迷うことについて

 

 

レベッカ・ソルニットの本は(翻訳であっても)文章の質感がとてもいい。

紙面から文字を追うことが心地よい。

 

迷った=失われたという言葉には、本当は二つの本質的に異なる意味が潜んでいる。「何かを失う」といえば、知っているものがどこかへいってしまうということだが、「迷う=〔自分が〕失われる」というときには見知らぬものが顔を出している。モノや人は――ブレスレットとか友人とか鍵とか――視界や知識や所有をすり抜けて消えてしまう。それでも自分がいる場所はまだわかっている。失くしてしまったモノ、消えてしまったひとつのピースを除けばすべてよく知っているとおりだ。一方で、迷う=自分が失われるとき、世界は知っているよりも大きなものになっている。そしてどちらの場合も世界をコントロールする術は失われている。(p.30)

「 迷い」「迷う」ということと「失われる」ということが同じ語源から辿れるということは、英語の辞書でも引けばわかっていたことだけれど、自分自身が失われるのか、自分以外の何かが失われるのかという違いは改めてはっとする。

そしてそれに「世界は知っているよりも大きい」「コントロールする術は失われる」という見方が提示される。自分を「失う」ということは、それまで考えていたよりも世界が広く見えるということでもある。

p.12にもともとは「軍隊からの解放」を意味していたと書いてあるけれど、何かしらの拘束から解放されるということは、実はその先の未確定な状態に状態が変化するということでもある。「解放」というとよく聞こえるけれど、自分が置かれた状態を抜け出したその先の未来は、改めて構築しなければならないことが伴うことになる。

「失う」とは自分の立ち位置を改めて考えなければならないということでもある。

 

そこで必要になるのはなにか物事が起こったときに対処するための備え、いわば精神の回復力だ。捕囚となった人びとが烈しく劇的なやり方でみせてくれているのは、実はわたしたちの日常生活でも起こっていること、つまり人がその人であることをやめる過程なのだ。彼らほどドラマチックなことはほとんどないとしても、近いものと遠いものを行き来する旅に似たことはいつでも起こっている。古い写真、昔からの友人、色褪せた手紙、そういったものがあなたはもうかつてあなただった人間ではない、ということを思い出させることがある。(p.90-91)

年を積み重ねながら自分が少しずつ変化していくことを感じている。日々がなんとなく過ぎていってしまう。頭の片隅ではわかってはいる「かつてあなただった人間ではない」ということ。

過程というのは見極めが難しくて、自分がその渦中にいると立っている場所もわからない。とはいえ、「人がその人であることをやめる過程」は常につきまとっていて、自分の薄皮がどんどん剥かれていってしまってしまう。

迷いながら、迷うことも意識しないまま。

 

人は未来に目を凝らし、現在がそのままの調子で見通しよくつづいていけばいいと思う。けれど、少しでも過去をみてみれば、変化はほとんど想像できないほど不可思議な回り道を辿っていることが明らかになる。(p.134)

不可思議な回り道を迷いながら進み続けて現在の場所にいる。

常に迷い続けて今の立ち位置があって、周りのできごとも変わり続けるから、現在のまま同じままで変わらないもう迷わないという選択肢は結局なさそうだ。

 

しかし南米大陸の右肩は地名やら河口やらが細かく書き込まれた一本の海岸線が描かれているのみで、それよりはるかに太く大きな「テラ・インコグニタ」つまり未知の土地という文字が現在のベネズエラとブラジルにあたるエリアにまたがって記されている。/それをみると。どんな地域についても地図に描く方法は数限りなく存在するということがよくわかる。地図は徹底して選択的なのだ。(p.177)

地図も創作物である。事実を描いているようでも。

ソルニットは「地図にしようがないもの」とも書いているけれど、地図をつくる人たちが「未知の土地」「未踏」に対応できないことに加え、表現としても地図に落とし込めないもの、盛り込みづらいもの、わからない測れない数値など、「見えないもの」はいくらでもある。

「地図は徹底して選択的なのだ」ということならば、その地図を頼りに自分の行き先を決める私たちの「迷い方」もまた選択的でもある。

自分を導く地図を私たちはどう選ぶのか。選択を繰り返した先に何にたどり着くのか。

「地図にしようがないもの」を自分はどう感じることができるんだろう。

 

物事は本性からして失われるものであり、それ以外の帰結はない。/わたしたちはまるで、例外を法則のように取り違えて、いずれすべてを失ってゆくということよりも、たまたま失われずに残っているものを信じているようだ。わたしたちは、落としたものを頼りにして、もう一度帰ってゆく道をみいつけることができてもよいいはずだ。(p.204)

物事はわたしたちの与り知るものではなくなってゆくものだ――そしてわたしたちは自分のいる場所も物事がおかれた場所もわからなくなる――ということと、物事はこの地球から消えてゆくものだ、というのは別の話だ。(p.205)

長年大事に抱えてものを、片付けの際にふとした瞬間に処分してしまうことがある。大事だと思いこんでいたけれど、瞬間的に「いらない」と判断してゴミ箱に突っ込んでしまう。

「ものが増えた」ので物理的に所有しきれなくなったというのもあるけれど、「どうせつかわない」ということが経験的にわかるようになったこともある。いろいろ試したあげくに、ほんとうに必要そうなものだけに意識が向くようにもなってくる。

安心を求めようとすると「 失いたくない」とか「迷いたくない」とか思ってしまうが、「たまたま失われずに残っているもの」を大事に抱えていることもある。

それに気づくことがある、若い頃はあれもこれも抱えようとしていてよくわからなかったけれど。

 

イデアというものは、新しいものもあるが、たいていの場合はずっとそこにあったもの、部屋の真ん中に鎮座していた謎、鏡のなかの秘密を見出すことにすぎない。ときにはたったひとつの思いがけない考えが、それまでとは別のやり方で馴染みのある土地を渡ってゆく橋をかけてくれることがある。(p.222-223)

「橋をかけてくれること」は「光明が見える」ということでもあるけれど、冒頭にあった「迷った=失われた」の原義にあるという「解放」とも近しいように思えてくる。

新しい世界に向かうための橋はとか新しいアイデアは、新しいものの見方を身につけることでもあって、たしかに自分を別の世界に連れて行ってくれることになる。

けれどそこに橋がかかったということは、それまでと同じところに留まり続けることもできなくなるということもである。

また新しい「迷い」へ。

それは「たいていの場合はずっとそこにあったもの」から始まる。

 

次の迷いへ。

本の話・17回目

8月分の課題図書はこれ。

キリン解剖記 (ナツメ社サイエンス)

キリン解剖記 (ナツメ社サイエンス)

 

 

読み終えてみて研究にはまっていく過程とかその度ごとの悩みとかが記されていてこれはほんとうにいい本だなと思いました。

未開の扉を探して自力で切り開いていくのは研究するにあたっては当然のことのように語られてしまうけれど、それを苦しみや悩みの気持ちも伴いながら楽しく自分のことを描ける力を持った文章に感服したのです。

 

研究論文は、何年経っても永遠に残り続けるものだ。(p.112)

 「論文はタイムマシン」と題されたコラムのなかの一節。

郡司さんとリチャード・オーウェンが並んで対談しているようなイラストがとてもいい(イラストということなら表紙に描かれた郡司さんの幼少期と現在の郡司さんの対比もとてもいい)。

リアルタイムではお互いが交わることがなくても、論文をとおして対話ができる。

記録とか研究成果の蓄積とか、何かに没頭したことの成果が未来の誰かに託される。

後の世代が先行する世代を身近に感じるように、先行する世代も未来の誰かを見つめている。

 

先生から幾度も「ノミナを忘れよ」と念を押された。ノミナ=Nominaとは、ネーム、つまり「名前」という意味をもつラテン語である。筋肉や神経の名前を忘れ、目の前にあるものを純粋な気持ちで観察しなさい、という教えだ。(p.75)

解剖用語は「名は体を表す」ケースが多いがゆえに、名前を意識し過ぎてしまうと先入観にとらわれ、目の前にあるものをありのまま観察することがでいなくなってしまうのだ。(p.76)

郡司さんの気づきにある「名前を気にしない」ということは解剖の研究じゃなくても参考になるところが多い。

それまでにないものに気がついてそれに名前をつける行為は、思い込みとかに縛られてしまうと難しかったりする。

名付けるこということは違いに気がつくことなので、それを自らの目で見たものにもとづいて観察するのはとても理にかなっている。

 

なぜこんなに標本を作るのか。それは、博物館に根付く「3つの無」という理念と関係している。「3つの無」とは、無目的、無制限、無計画、だ。「これは研究に使わないから」「もう収蔵する場所がないから」「今は忙しいから」……そんな人間側の都合で、博物館に収める標本を制限してはいけない、という戒めのような言葉だ。

たとえ今は必要がなくて、100年後、誰かが必要とするかもしれない。その人のために、標本を作り、残し続けていく。それが博物館の仕事だ。(p.212)

前回の『夢見る帝国図書館』は図書館の話で、そっちではお金の話も出ていたけれど、 残そうとしている対象が異なるだけで、やりたいことは両者とも同じ。

残すことは過去の人たちへの敬意であるとともに、今自分が見ているものを未来の人に託すということでもある。

 

p.103のキリンとオカピの骨の形を比較した図はとても印象的だった。

ひたすら観察をして相違点を探る。

気の遠くなるような作業の積み重ねと、ひたすら思考する時間のなかで見いだせる光明がある。

論文を読みこなせなかった学部生の頃があって、同じ論文を読めるようになったときとの比較もされている。

学問というものが少しずつ積み重ねていくものだということがよくわかる。

 

いい意味でキリンの見方が変わってしまう本でした。

物事を見つめる視点を更新する力はとても魅力的でした。

ぜひ高校生とかに読んでもらいたいなと思える本でした。

本の話・16回目

今更ながら7月分の更新を。

夢見る帝国図書館

夢見る帝国図書館

 

 

図書館の歴史は人類の知識の歴史と歩みを同じくする。

記録を残そうとしている施設は過去へと思考を促す一方で、自分たちの未来についても考えさせてくれる。

 

自分自身は図書館というものとはほぼ無縁な環境に育っていて、本のたくさんある空間というものはテレビのなかでしか見ていない。

大人になった今になってみれば図書館ってとても大事な施設だなとは思うけれど、そういうものが周りになかった子供時代を過ごしてきた自分と、ある程度自由に本にたどり着いていた人たちとの差は感じることがある。

一般的にみんなが読んでいたものとか、読んでいるはずだろうと思えるものに出会えなかった子供というのは珍しくなくて、子供の頃の読書体験というものは周りの環境に大きく依存するものだということを大きくなってから理解した。

 

この本は帝国図書館の歴史を辿りながら小説部分と事実関係の配置が交互に記述されている。

事実関係のところも中島さんなりの描かれ方なので、教科書的に淡々と書かれているわけではなくて、それがまたこの小説の魅力的なところでもある。

 

「お金がない。お金がもらえない。書棚が買えない。蔵書が置けない。図書館の歴史はね、金欠の歴史と言っても過言ではないわね」(p.39)

お金がかかるだけで直接的な利益を生まない。その効果は数年後や数十年後に現れることも珍しくない。文化とかそういう言葉で簡単に絡め取ってしまうのも少し怖い。とても大事な施設なのに、お金がまわってこない。

大事だ大事だと言うけれど簡単にお金は動かない。

 

「上野って、昔から、そういうとこ」

「そういうとこって?」

「いろんな人を受け入れる。懐が深いのよ」(p.50)

地方で生まれ育っているので、東京が街ごとにいろんな表情をしていることを知るのはとても遅かった。

大人になってから、東京のなかでも上野は早い段階で興味を持った土地ではある。

その頃は帝国図書館が上野という土地に建っていることの意味とかもわからなかったし、上野という土地に刻まれた歴史も全然わからなかった。

帝国図書館の跡地(改修後の図書館)を訪れてみても、理解することに時間はかかっている。

 

そして自分自身の記憶にはないのだけれど、最初に東京の土地を踏んだのは上野で、親に連れられて行った動物園での写真が残っている。

自分の記憶にはないゾウとかキリンと撮った写真がある。

記憶にはないけれど記録にはある個人史の断片。

私自身も上野の懐のなかにいつの間にか収まっている気分になる。

 

「この聖堂が近代日本の最初の図書館だったころに、通った人物としていちばんよく知られているのは夏目漱石幸田露伴だろうが」(p.59)

図書館は本のある空間でありながら、人がいる空間である。

つかった人の歴史、通った人物の歴史という視点に立つというのは、図書館という施設のおもしろさであると思う。

博物館とかもそうで、ものを保存する空間には人が集まる。

本を集めたらそこに人が集まる。

単純な仕組みのようだけど、本たちが私たちを呼び寄せているようにも思える。

人が本を集めるとそこに図書館という名前がついて、図書館という名前がつくとそこに人が集まる。

その頃は無名だった夏目漱石幸田露伴も集まる。

 

東側ブロックを着工した。

東側ブロックは着工した。

東側ブロックの建設は進む。

東側ブロックは出来上がった。

東側ブロックはもう建っている。

東側ブロックしか建っていない。

東側ブロック。

しか、ない。(p.107−108)

文学として描き出された表現というのはほんとうにすばらしいなと思える一連の流れ。

単に「お金がなくてそこしかできなかった」というように説明されてしまうところを、こんなにもおもしろく表現できるのかとおもしろかった。

 

図書館というものに憧れる気持ちがでてきた瞬間のことはもう忘れてしまっている。

身近になかった子供の頃に空想していた図書館と、大人になってから見聞きする図書館はどうも違ってしまっている。

今ではもう当たり前とも思えてしまう図書館という施設の歴史を遡れば遡るほどに、どういう偶然で本がつくられて読まれて忘れられて出会うのかをつなげている細い糸の存在を感じる。

その糸は途切れない。

日本の近代の図書館の源流として名前を残す帝国図書館に始まって、あちこちに増えてきた図書館とか図書館らしさのいくつかの支流を実際に眺め続けてみると、自分を形づくりながらもまとわりついている言葉というものもいろんな偶然の賜物だと思わされるし、図書館らしいものにどうやってつながっていけるかを妄想したくなってくるわけです。

足りない言葉を探しに。