本の話・21回目
今月の課題図書はこちら。
読むにつれて紙質がどんどん変わっていくのがおもしろい本だ。
富山にはだいぶ前にちょっとだけ訪れたことがある。魚がおいしかった。
「あんたは愛想ばっかり振りまいとって、本心を誰にも見せようとせん。人を信じれん人間なが。自分に自信がないから人のことも信じれんが。そんなんで生きていけるんかと思って、お母さんね、本当に心配しとる」(p.60)
「私は自分で自分のことを信じてるわよ。だって、信じるしかないじゃない」(p.78)
「信じる」とか「自信」とか、「信」という言葉を普段の生活のなかで誰かに言うことってそんなにない。
平凡に日々を暮らそうと思ったり、実際に何事もない暮らしをしていると特にそうだ。
それでもごくたまに「信」の瞬間が訪れる。誰かに。自分にも。
人生の節目節目で、それまでの生き方を少し見直してみたくなる瞬間が向こうからやってくる。
「今、生きているこの場所を、どこまで面白がれるか」(p.84)
「何かやってダメになるとすぐに失敗したとかいうけどね、成功しなかっただけで失敗はしとらんのですよ! 物事には必ず長所と短所がある。1%でも長所が上回ればGOですよ! 高い壁の話ばっかせんと、前向きな話をせんといかんです」(p.88)
会話文のセリフがいちいち引っかかってくる。次々に登場してくる人たちの投げかける言葉の触り方がすごい。
「そこで何をするのか」をできるだけ前向きな言葉で語る。できる限り誠実に。
GOですよ!
そうか、GOなのか。だよな。
「本を作るのがおこがましいって言うけど、あんたはもう既におこがましいが。人に何かを伝えたいって思っとる時点で、おこがましいが! そのことをそろそろ受け入れられ。そして恥をかけ!」(p.118)
母は「おこがましい」をこんな短いセリフで3回もぶつけてくる。瞬発的に。
これは惹かれる。迷うこととか動きづらいこととか動けないこととか、自分を受け入れられない自意識を刺激してくることとか、それらを「おこがましい」と言い切ってもらえたら。
そして「恥をかく」ことを進められる。「恥ずかしい気持ちを忘れるな」とも言われる。
「恥ずかしい気持ちを忘れない」ことと「恥をかく」ことは違う。「恥をかいた」ことはきちんと自覚しないければ、「恥ずかしい気持ち」を保つこともできない。
恥を自覚して、恥の気持ちを忘れない。
生きていくことの難儀さとか、その都度ごとに選択したことの良し悪しとか、その延長にある今の置かれた状況とか、恥とともにある。
こういうセリフを母から引き出している藤井さんの存在感はほんとすごい。
「文化や芸術というものは、理性や論理では語れないと思います。ダメで、偏愛的で、マイノリティだったりする。だからこそ、それを受け入れる図書館や美術館には、公共性が必要だと思います。それは観光資源化という意味ではない」(p.202)
藤井さんの周りにいる人たちの価値観に感心させられる。読み進めながら、それを書き残している藤井さんという存在にも感謝したくなる。
地域のこととか地方のこととかを考ようとする風潮があって、ここしばらくいろんな角度からいろんなことが言われてきたとは思うけれど、突っ走っている藤井さんの周りの人たちのさりげないものの見方がこの本の魅力を高めている。
藤井さんという人を通して見えるもの。
自分探しの着地点は、不惑の四十になってもいまだ見つからないが、それでも気づいたことがある。それは、私という人間は確固たる自我があるわけではなく、今まで出会ってきた人たちで形成されているということだ。誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられることに、どうしようもなく不安になっても、この地に生きる人たちと関わろうとする気持ちが萎えることはない。それだけは、ピストン藤井としても、藤井聡子としてもブレない事実だった。自分が何者なのかは、他者を見ればわかる。(p.211)
この本を読んでいて、いろんなところが引っかかりながらも、印を付けたところは藤井さんの周りの人たちのセリフが多かった。
藤井さん自身の地の文で一番よかったのは最後のあたりのここの部分。
他者を見ればわかる。
私も誰かを構成する「何者か」の一人になっている。そのことを確認させてもらえてよかった。
そういう思いとともに、私も「この地」に生きることができる。
いい本だった。