本の話・12回目

3月分の課題図書はこれ。

今更書く感想。

エコラリアス

エコラリアス

 

相棒がツイートしていたので「次それにしよう」とこちらから提案した。

ちょうど手元にあって読みたかったのに読めなかった本。

本棚にはあるけど手が伸びずに熟成させた。

読書にはタイミングというものがある。

 

紹介文を読んだときに子供の言語の話かと思ったけど、それに限定されるわけではなかった。

子どもは言葉を覚えるときに、それ以前の赤ちゃん語を忘れる。そのように、言葉はいつも「消えてしまった言葉のエコー」である。そして、忘れることは創造の源でもある。
言語の中にはつねにもうひとつの言語の影があり、失われた言語が響いている。言語の崩壊過程に言語の本質をみたヤコブソン、失語症を考察したフロイト、複数の言語を生きたカネッティ、死んだのに語る口を描いたポー、母語についてはじめて語ったダンテなどを導きに、忘却が言語の本来もつ運動性であることが浮上する。
アガンベンの英訳者として知られ、30代で本書を著し、恐るべき知性として話題を呼んだ、ヘラー=ローゼンの主著。流離こそが言語の核心であることを明かす、言語哲学の最重要書である。

 https://www.msz.co.jp/book/detail/08709.html

 

「忘れることは創造の源」という言い切り方に惹かれる。

覚えたことを忘れることは良くないことと思って若い頃は過ごしてきたりしたけど、忘れるからこそ次のフィールドに向かうことができたりもするんだなとも思うようになった。

言語だけの問題でもないとも思うけど、私たちが何かの形で動く際には思考も伴うし、どうしたって言語の世界に引っ張り込まれてしまう。

 

「ずいぶん以前の話だが、わたしは芸術作品を構成する諸要素の忍耐強く精密な研究に没頭し、多様で豊かな表現方法を持つことは芸術家によって望ましくないという反論不可能な結論に至った。そして、不完全な知識しか持たない言語で書く方が、完璧に自分のものにしている言語で書くよりもずっとふさわしいと考えるようになった」。ある言語の語彙を完全に知らない場合、作家は自分の思考に合った新しい表現を造り上げる必要を感じる。その結果、「芸術の誕生」を妨げる慣用句を使わずにすみ、新しく、時には天才的な方法で自分の考えを表現することができるのだ。(p.219-220)

たまに喋る仕事をしていると、自分の口癖を意識することがある。

いつも通りの言い方は、仕事として安定しているとも言えるし、一方で自分の口に柔軟性が欠けている感覚もある。

口を開けばいつも同じ言葉が出てくるなんてなんて退屈なんだとも思う。

できれば自分の口を取り替えてみたい。

一度獲得してしまった語彙を忘れることは難しいけれど、忘れるということは創造的であるとは確かにそうなのだ。

たとえば言葉のど忘れする導いてくれるおかしみの地平は実際には困るけれど、身体としては微妙にいい方向に変化するような思いがある。

でもそれでいて他人の語彙が足りなくなった瞬間はそれはそれで好きだったりする。

他人事ならそれで良いのだ。

 

人間の行動の本質は、このような、減少の可能性になるのだという。その重要性がいかなるものであれ、この可能性のおかげで、人は、本来の行動よりもより少なく為すという能力を固有の美点として持つことができるのだ。そこから考えられるのは、人間によってなされた行動は、他と切り離して考えることはできないということである。ある行動そのものを検討する際には、その行動の周りに投げかけられた、より劣った行動の影に注意を払わなければならない。(p.149)

人間はそのように創られているので、人は困難な事柄を成し遂げられる時、それよりもより優しい事柄も行える能力を持つ。(p.148)

動物との違って、人間はわざと「劣った行動」を取ることができる。 

それが人間の行動の本質でもあると言われる。

言語の問題(失語症とか御用とか言語障害とか)についての話ではあるけれど、私たちの振る舞い全般についてもそういうことが言えそうだ。

こういう能力が「美点」という評価になっているのがおもしろい。

完璧にこなされない物事にこそ現れてくる何か。

そこにこそ人間らしさがある。

 

どんな努力をしようと、言語はわたしたちが生きている間に少なくともその「半分」は変わってしまうのだし、それが「今そうであるように、絶えず逃れさり形を変えていく」だろうからだ。言語はいかにしても同じ形でいることはできず、好むとこのまざるとにかかわらず、「毎日我々の手からこぼれ落ちていく」のだ。本質的に変わりやすい言葉は、自らの構成要素である時間のおかげで、人の所有物に完全になることはなく、また、それゆえに、完全に失われることもない。(p.88-89)

 自分の口癖とか、あるときだけ頻繁につかっていた言い回しとか、今はすっかり忘れてしまっている。

時間が経つにつれて、「つかいたい言葉」を見つけるのと同じように「つかいたくない言葉」にも気づいてくる。

言葉としてはよのなかに残っているわけなので、自分はもうつかわないと決めた言葉があって、それを他人がつかう場面に出くわすとドキッとする。

それこそ言葉は自分の所有物ではないのだけれど、私たちには所有しない自由もあるはずで。

一つひとつ丁寧に自分の持っている語彙からいらない言葉を除外していくことを生活のなかで意識するようにしている。

大事に育てる作物の芽を間引いていくように。

自分らしさが見える言葉を育てていくように。

言葉は形を変えるそうだけど、変わってくれるものでほんというによかった。

それは自分自身も変わるために必要なことだ。

 

言語は消え去り、同時に残り続ける。身体を超え、言語は、自らが属しそれに奉仕していたと思われるものの消失の後にも残る。言語はそういうものでしかあり得ない。言語とは、自らの後にも生き延びる存在なのだ。(p.272)

言語は身体を超えて残り続けるもの。

自分が獲得したと思い込んでいる言葉たちは、過去の誰かが消失させてしまったものだろうか。

私たちがさわれるのは、過去の何らかの名残だけ。

消えたと思ったものが実際はどこかに残る。

それは私たちの身体に一時期だけ宿ったりする。

今の自分の手のなかにある言葉は、誰かに渡すことができる言葉だろうか。

それともいずれ消されてしまう(それでも残されてしまう)言葉だろうか。

消えない言葉を誰かに渡せるだろうか。

 

若い頃は天の邪鬼に考えていたから、(今振り返ると大してよくわかってなかったくせに)言葉について考えることに積極的な意味を見いだせなかった。

思い返せば言葉の操り方が下手くそだったんだ。

もっと遠慮なく忘れてしまっていいのだ、自分にとっては。

誰かがそっと思い出させてくれるまで。