本の話・18回目

9月分の課題図書はこちら。

迷うことについて

迷うことについて

 

 

レベッカ・ソルニットの本は(翻訳であっても)文章の質感がとてもいい。

紙面から文字を追うことが心地よい。

 

迷った=失われたという言葉には、本当は二つの本質的に異なる意味が潜んでいる。「何かを失う」といえば、知っているものがどこかへいってしまうということだが、「迷う=〔自分が〕失われる」というときには見知らぬものが顔を出している。モノや人は――ブレスレットとか友人とか鍵とか――視界や知識や所有をすり抜けて消えてしまう。それでも自分がいる場所はまだわかっている。失くしてしまったモノ、消えてしまったひとつのピースを除けばすべてよく知っているとおりだ。一方で、迷う=自分が失われるとき、世界は知っているよりも大きなものになっている。そしてどちらの場合も世界をコントロールする術は失われている。(p.30)

「 迷い」「迷う」ということと「失われる」ということが同じ語源から辿れるということは、英語の辞書でも引けばわかっていたことだけれど、自分自身が失われるのか、自分以外の何かが失われるのかという違いは改めてはっとする。

そしてそれに「世界は知っているよりも大きい」「コントロールする術は失われる」という見方が提示される。自分を「失う」ということは、それまで考えていたよりも世界が広く見えるということでもある。

p.12にもともとは「軍隊からの解放」を意味していたと書いてあるけれど、何かしらの拘束から解放されるということは、実はその先の未確定な状態に状態が変化するということでもある。「解放」というとよく聞こえるけれど、自分が置かれた状態を抜け出したその先の未来は、改めて構築しなければならないことが伴うことになる。

「失う」とは自分の立ち位置を改めて考えなければならないということでもある。

 

そこで必要になるのはなにか物事が起こったときに対処するための備え、いわば精神の回復力だ。捕囚となった人びとが烈しく劇的なやり方でみせてくれているのは、実はわたしたちの日常生活でも起こっていること、つまり人がその人であることをやめる過程なのだ。彼らほどドラマチックなことはほとんどないとしても、近いものと遠いものを行き来する旅に似たことはいつでも起こっている。古い写真、昔からの友人、色褪せた手紙、そういったものがあなたはもうかつてあなただった人間ではない、ということを思い出させることがある。(p.90-91)

年を積み重ねながら自分が少しずつ変化していくことを感じている。日々がなんとなく過ぎていってしまう。頭の片隅ではわかってはいる「かつてあなただった人間ではない」ということ。

過程というのは見極めが難しくて、自分がその渦中にいると立っている場所もわからない。とはいえ、「人がその人であることをやめる過程」は常につきまとっていて、自分の薄皮がどんどん剥かれていってしまってしまう。

迷いながら、迷うことも意識しないまま。

 

人は未来に目を凝らし、現在がそのままの調子で見通しよくつづいていけばいいと思う。けれど、少しでも過去をみてみれば、変化はほとんど想像できないほど不可思議な回り道を辿っていることが明らかになる。(p.134)

不可思議な回り道を迷いながら進み続けて現在の場所にいる。

常に迷い続けて今の立ち位置があって、周りのできごとも変わり続けるから、現在のまま同じままで変わらないもう迷わないという選択肢は結局なさそうだ。

 

しかし南米大陸の右肩は地名やら河口やらが細かく書き込まれた一本の海岸線が描かれているのみで、それよりはるかに太く大きな「テラ・インコグニタ」つまり未知の土地という文字が現在のベネズエラとブラジルにあたるエリアにまたがって記されている。/それをみると。どんな地域についても地図に描く方法は数限りなく存在するということがよくわかる。地図は徹底して選択的なのだ。(p.177)

地図も創作物である。事実を描いているようでも。

ソルニットは「地図にしようがないもの」とも書いているけれど、地図をつくる人たちが「未知の土地」「未踏」に対応できないことに加え、表現としても地図に落とし込めないもの、盛り込みづらいもの、わからない測れない数値など、「見えないもの」はいくらでもある。

「地図は徹底して選択的なのだ」ということならば、その地図を頼りに自分の行き先を決める私たちの「迷い方」もまた選択的でもある。

自分を導く地図を私たちはどう選ぶのか。選択を繰り返した先に何にたどり着くのか。

「地図にしようがないもの」を自分はどう感じることができるんだろう。

 

物事は本性からして失われるものであり、それ以外の帰結はない。/わたしたちはまるで、例外を法則のように取り違えて、いずれすべてを失ってゆくということよりも、たまたま失われずに残っているものを信じているようだ。わたしたちは、落としたものを頼りにして、もう一度帰ってゆく道をみいつけることができてもよいいはずだ。(p.204)

物事はわたしたちの与り知るものではなくなってゆくものだ――そしてわたしたちは自分のいる場所も物事がおかれた場所もわからなくなる――ということと、物事はこの地球から消えてゆくものだ、というのは別の話だ。(p.205)

長年大事に抱えてものを、片付けの際にふとした瞬間に処分してしまうことがある。大事だと思いこんでいたけれど、瞬間的に「いらない」と判断してゴミ箱に突っ込んでしまう。

「ものが増えた」ので物理的に所有しきれなくなったというのもあるけれど、「どうせつかわない」ということが経験的にわかるようになったこともある。いろいろ試したあげくに、ほんとうに必要そうなものだけに意識が向くようにもなってくる。

安心を求めようとすると「 失いたくない」とか「迷いたくない」とか思ってしまうが、「たまたま失われずに残っているもの」を大事に抱えていることもある。

それに気づくことがある、若い頃はあれもこれも抱えようとしていてよくわからなかったけれど。

 

イデアというものは、新しいものもあるが、たいていの場合はずっとそこにあったもの、部屋の真ん中に鎮座していた謎、鏡のなかの秘密を見出すことにすぎない。ときにはたったひとつの思いがけない考えが、それまでとは別のやり方で馴染みのある土地を渡ってゆく橋をかけてくれることがある。(p.222-223)

「橋をかけてくれること」は「光明が見える」ということでもあるけれど、冒頭にあった「迷った=失われた」の原義にあるという「解放」とも近しいように思えてくる。

新しい世界に向かうための橋はとか新しいアイデアは、新しいものの見方を身につけることでもあって、たしかに自分を別の世界に連れて行ってくれることになる。

けれどそこに橋がかかったということは、それまでと同じところに留まり続けることもできなくなるということもである。

また新しい「迷い」へ。

それは「たいていの場合はずっとそこにあったもの」から始まる。

 

次の迷いへ。