本の話・11回目

このエントリーは2月分です。

今更だけど2月もなにかと忙しかった。

3月も。

 

今回の課題図書はこれ。

災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

 

 

出版情報を目にしたときから「これはきっといい本だ」という予感があって即注文していたけど、なかなか読めずにいたら相棒も気になっているということで、すぐにメッセージして「次これにしよう」とお願いした。

大部な本なので忙しい時期に読むの大変でしたねと相棒とも笑い合ったりしたけど。

 

どちらかといえばサブタイトルに惹かれた、特別な共同体。

ここしばらく共同体について関心を寄せている。

 

前半部分を読んでいて、小沢健二のひふみよツアーの「闇」を思い出した。

「昔の人は門構えに音と書いて闇を表した」

「けれど今夜だけは僕らはぜんぜん違う世界で時を過ごす」

停電と災害では影響の大きさが違うけれど、何もできなくなってから立ち上がる共同体というところが重なって見えてくる。

小沢健二のライブを見に行ったのはもう10年くらい前のことになるけど、こうして時間が経ってみてから読んだ本とつながる想い出というのはとても楽しい。

本を読むことは他者の言葉に導かれて自らの体験を何度も塗り替えることだなぁと思う。

そもそもこの本も、あのツアーと同じくらいの時期に翻訳が出版されたものだ。

東日本大震災以前に出された本で、あれ以降に注文が増えたというのも当然のように思える。

https://jfissures.wordpress.com/2011/03/30/rebecca-solnit/

 

最近では、わたしたちは、希望をたいていは想像上の未来より、変化に富んだ過去の断片や伝統の中に見出す。だが、災害はわたしたちを、人間性も社会も一変した一時的なユートピアに投げ込む。そこでは人々は平常時より大胆で、より自由でしがらみがなく、まとまりがよく充実してはいるが、縛られてはいない。(p.37)

過去から現在、現在から未来、という時間の流れは以前よりもずいぶんと意識的に考えるようになった。

それは仕事のせいでもあると思うし、それなりに歳をとってきたからかもしれない。

年月。

意図せずに「残されてしまう過去」とか、その断片が目に止まってしまうこととか、意識的にでも「残そうとする過去」が見えてきたこととか、そういう過去の重みとか感じたりするようになったとか。

子供もいると、未来を見据えながら、未来につながるような過去を大事にしたいと思うようになったりして。

それでも未来の想像よりも過去のほうが明瞭に思えて、過去の断片の力はとても強い。

でもそれがたとえば災害でつながりが切断されてしまっとして、そこにしがらみがなくなってとか大胆という風に見えるだろうか。

災害で未来の希望が見えなくなったとき、過去からの希望も見えなくなるだろうか。

過去の断片はずっと私たちの希望であり、縛っているようにも思う。

現実が自由なのか不自由なのかわからなくなったとしても。

 

“クライシス(危機)”という言葉はギリシャ語を語源とし、何かが最高点に達し分裂する点、すなわち、どう変わるにしろ、変化が差し迫った瞬間を意味する。(p.113)

語源を知ると世の中の見え方が変わる感覚がある。

今の時代の意味へと変わってしまう前の言葉がなぞっていた現実世界のこと。

語学がそれほど得意なわけではないけど、言葉に対して持っていた思い込みの角度を少し変えてくれる感覚。

良くも悪くも変化を生み出す最高点、災害はそれを私たちに与える。

そういう変化後の世界に慣れてしまうと、振り返ってそれ以前を考えてみても分裂前の感覚をうまく再現できない。

 

自然災害では個人より組織のほうが問題を起こしやすいと、クアランテリも言っている。「役所仕事は決まりきった手順やスケジュール、ペーパーワークなどに依存している。実際、現代社会は、正しく行われればだが、役所仕事なしでは立ちゆかない。唯一の問題は、革新的な考えやいつもとは違うやり方が必要な非常時には、お役所的な組織が最大のネックになりうるということだ。(p.169)

決まりきった手順はいいこともある。

手順は先を見通せて、同じような成果を出してくれる力を持つ。

それはとても安心するけれど、手順から外れることへの不安感も伴う。

災害時の混乱には手順がなくなることの自由もあって、新しいやり方を構築しないといけなくて、それは確かにお役所的なものとは遠いところにある。

 

彼女の息子がある日、『ママ、地面が揺れてから、ママの中は揺れ続けているんだね』と言ったそうなんです。母親が以前とはまったく違った人間になっている(p.192)

東日本大震災のときにはまだ子供はいなかったから、あの災害を知らない子供と今は暮らしている。

子供たちが知らないままでいるということにホッとする感覚がある。

自分たちは体験として知っている。

知らない世代もいる。

仮に自分が「まったく違った人間」になったとしても、違った形になっていることを受け止めてくれていると思える安心感もある。

それでも、世の中にはあの災害を子供のときに体験した子もいて、記憶に残したまま時間が経って成長している。

自分が親の立場だとして、子供に「揺れ続けている」と言われたとしたら。

「揺れたまま」でうまく歩けるだろうか。

 

災害と革命は、ある意味、カーニバルを生じさせる。混乱が生じ、人が集まる場があるという意味で、災害にはカーニバル的な側面がある。また、革命も一種のカーニバルだと考えることができる。それならば、革命を良いものを永久に作り出す試みではなく、むしろ再生と再発明の瞬間だととらえれば、わたしたちは束の間のユートピアを新しい目で見ることができる。(p.224)

西洋のカーニバルを実際に見たことがある。

(見たと言うより意図せず巻き込まれた。それはそれで楽しかった)

日常風景のなかに現れる異質な関係で、いつもと同じ人が別の姿を装う。

それはすぐ終わる、簡単に終わってしまう。

災害のユートピアも束の間のできごとで、再生と再発明はずっと続くわけではない。

いつもの風景のなかに異なる見え方がある。

装いの準備をして、装いを脱ぐまでのカーニバル。

災害や革命の観点からもう一度見直すと、カーニバルは通常の時間のカレンダーに打たれた単なる句読点ではなく、息をするためや、プレッシャーを取り除くためや、外部の可能性を取り入れるための空気孔で打たれた句読点であるかのようだ。(p.227)

空気孔というのは咄嗟の瞬間に触れる世界にあって、自分の思い通りに動けない世界だなと思う。

それは息継ぎのために水面から顔を出さないといけないようなもので、そこから逃れられない。

カーニバルはカレンダーの通りに予定調和的に動くわけではない。

息が続かなくなったら浮上するしかない。

さっき「束の間」という言い方をしていたけど、それは安心して顔を出せる世界ではなくて、「それしか方法がない」という世界で、また潜らないといけない。

カーニバルでは、災害では、「息をするため」にどうしても顔をださないといけない。

「外部の可能性を取り入れる」ためであって、自分たちが「外部に出ていく」ものではない。

あっという間に、再び水の中へ潜らされる。

 

あなたは誰ですか? わたしは誰でしょう? 災害の歴史は、わたしたちの大多数が、生きる目的や意味だけでなく、人とのつながりを切実に求める社会的な動物であることを教えてくれる。そして、それはまた、もしわたしたちがそのような社会的動物ならば、ほぼすべての場所で営まれている日常生活は一種の災難であり、それを妨害するものこそが、わたしたちに変わるチャンスを与えてくれることを示唆している。災害は普段わたしたちを閉じ込めている塀の裂け目のようなもので、そこから洪水のように流れ込んでくるものは、とてつもなく破壊的、もしくは創造的だ。(p.427)

破壊は創造と表裏一体であって、新しい道が見いだせることでもある。

日常生活は塀のなかに閉じ込められているようなもので、それは確かに安心感もあるけれど、それが裂けることは自分に新しい可能性が広がることでもある。

「日常生活は一種の災難」という見方は確かにそのとおりとも思えて、同じようなことを繰り返さないといけない日々はそれはそれで苦痛でもある。

災害が破壊するものばかり目についてしまうけれど、それは逃れたいような過去を洗い流してくれるものでもある。

過去とは違った流れで新しい創造ができる。

本来であれば負の方向に進んでしまうような感覚になるけれど、災害は実に前向きな捉え方もできる。

安心感も欲しい、でもそこではない新しい世界も見たい。

いつもの暮らしのなかでは届かない世界も見てみたい。

パラダイスを作ることは、わたしたちの宿命である。これまでに文学の中などで語られたパラダイスは、せいぜい永遠のバケーション程度のもので、意味のないものだった。“地獄の中のパラダイス”は即興的に作られる。わたしたちはそれを情況に即して作るが、その過程で、わたしたちの強さや創造力が求められ、たとえコミュニティに巻き込まれているときでも、わたしたちは自由な創案を発揮できる。地獄の中に作られた、こういったパラダイスは、わたしたちに何ができ、わたしたちが何になれるかを教えてくれる。(p.439-440)

「何ができ」「何になれるか」、これらは安定した日常のなかで日々の暮らしのなかで得られるという側面もあるとは思うけれど、降って湧いてきた新しい環境が、災害が変えた地獄の中のパラダイスが教えてくれることでもある。

生きていくために何かできることを考える。

いつもの暮らしを維持するのは、変わらないこととか変わろうとしないことではなく、むしろ新しさを生み出す変わろうとすることだったりする。

災害は強烈に変わることを強要してくる。

一気に、強く、一瞬に。

わたしたちがすべきことは、門扉の向こうに見える可能性を認知し、それらを日々の領域に引き込むように努力することである。(p.440)

大事なことは日々の領域にある、日々の暮らしにある。

いつか失われてしまういつもの生活がある。

それまで見えなかったものが目の前にたち現れたとき、そこで戸惑うことがないように、日々の生活で見えないものにも目を配らないといけない。

言葉にならないものごとに、言葉を探して与えていくように。