本の話・4回目

延期が2回あったけどセッションは毎月続いている。

よかった。

 

今回の課題図書はこちら。

これからの本屋読本

これからの本屋読本

 

内沼さんの取り組みには長年注目してて、前著の『本の逆襲』も楽しく読んだ。

本の逆襲 (ideaink 〈アイデアインク〉)

本の逆襲 (ideaink 〈アイデアインク〉)

 

 

前著から4年くらい時間が経って、しっかりアップデートされている感じがしました。

(内沼さんご本人も書いているけど、核となる部分はそれほど変わってないですね。)

 

今回の本は前半部分に付箋を多く貼りました。

たとえばここ。

本棚が生活空間の中にあると、背表紙や表紙が、日々の生活のなかで目に入る。かつて読んだ本であれば、そのたびに内容が頭をよぎるし、まだ読んでいない本であれば、中身を想像したり、買ったときのことを思い出したりしながら、いつか読もうという気持ちになる。

それは自分という個人のフィルターを通って、選ばれたものだ。出費がともなうぶん、精度の高いフィルターを通って厳選されている。並べてみると、傾向が見えてくる。自分はこういうことに関心があるのかとあらためて気づいたり、並び替えているうちに、本と本の間に接点が見えてきて、新たなアイデアが生まれたりすることもある。いわば自分用にカスタマイズされた図書館であり、これが日々の読書の拠点となり、ものを考えるときの道具にもなる。(p.40)

こういう感覚、若い頃だったら頭でしかわからなかったと思う。

それなりに年齢を積み重ねてみると、自分にとって必要な本というのがわかってきて、買おうと思う本はだいたい似てくるようになってしまう。

良くも悪くも。

持っている本の数が増えてきて、全体を通して見るとまさに自分というものがこれまで生きてきた証のような書物群になっている。

そういう本に囲まれて幸せだ、とも思える。

 

でも一方で、本の厳選は加えるだけじゃなくて、減らすことにも厳選している。

「この本はもう読まない」「買ったけど結局読まなかった」そういう本もたくさんある。

古本屋さんに手放してしまった本、誰かにあげてしまった本、振り返ればそれらも自分の血肉にはなっているとは思うけど、目の届かないところに行ってしまうとすっかり忘れてしまう。

手元にある本、手を伸ばせばそこに置いてある本、そういう本たちを選び抜いてきたことは、不要と判断してしまった多くの本たちの存在も抜きにしては語れない。

「目が肥えてきた」とも言えるし。

若い頃より本にかけられるお金は増えているはずだけど、本選びはよりコアな方向に向かっている。

 

それは確かに若かった頃の自分の選んだ本なわけだけど、それが歳をとってからも必要になるわけではなくて。

若い頃に着ていた服がもう着れなくなってしまったように。

そのときに必要な本は常にアップデートされていく。

 

「本」を厳密に定義することは不可能だ。遠回りをしたようだが、いったん「本」を広く捉えてみることで、読者のみなさんそれぞれに、自分なりに「本らしい」と感じるものについて考えてもらうために、ここまで書いた。読んでいて違和感のある箇所があれば、そのあたりにあなたの「本」と「本でないもの」との境界が隠れている。(p.84)

自分は何を「本」と感じているのか。

ここ数年で自分自身もだいぶ柔軟な考え方(本をなるべく広く解釈する)に変わってきたと思うけど、それに対しての内沼さんの影響はとても大きくて、「本らしさ」を考える癖がついてしまっている。

私は「本」であり、あなたも「本」である。

内沼さんは「コミュニケーションも本かもしれない」という言い方もしている。

コミュニケーションと対話が同じというわけではないけど、たぶん対話もそこに含まれるだろう。

対話の形もいろいろあって、今現在に生きてる人との対話もあるし、死者との対話もある。

どちらも誰かに対して語りかけたいのだ、自分が。

私が言葉を発することで、未来に生きる人との対話も可能だ。

「本を読む」という行為は「人の考え方を読む」ということなので、紙の世界にこだわることもすっかりしなくなってしまった。

 

人はそれらのコンテンツを通じて、自分がこれまでに得てきた経験や知識と照らし合わせながら、様々なことを思い浮かべたり、考えたりする。何度も書いてきたことだが、みなそれぞれ生きてきた人生が違い、読んでいるときの環境も違うから、一冊の本、ひとつのコンテンツから、同じものを読み取るということがない。百人の受け手がいれば、百通りに異なるからこそ、同じ小説や映画について誰かと語り合うのは楽しい。(p.74)

本について語り合うことができるというのは、とても幸せなことだなって思います。

「自分がその本に出会う前に誰かが運んできてくれたこと」と、「自分自身がその本に向き合って文字を追って読む時間」が読書にとって大事なことだとは思いながらも、「本を読み終えたあとにその内容を実際につかう」という機会は、その本について誰かと話すことだと思うのです(話さなくても自分の行動に表れたりとかもあると思いますが)。

そこにあるのは関係です。

本を介して誰かと関わること。

そういう楽しみ方を若い頃から知っていたら、今の自分とは違った読書体験や読書遍歴になっていただろうとは思う。

これまではそれでよかったのですが、今は読み合う相棒がいて、そういう風に歳を積み重ねることの楽しさを感じます。

 

この本のなかでよかったなってところは、最後の第9章ですね。

内沼さんの半生が描かれた「ぼくはこうして本屋になった」。

(個人的に「自伝」というものを読むのが好きなのです。)

内沼さんがほかのいろんな媒体でも喋ってきたことだけど、自分語りは改めて読んでみてもおもしろい、その人ならではの視点が見えてきます。

おもしろい考え方をする人は、どこでそういう考え方を身に着けたのかを知りたい。

自分が体験してきたことは、文字にするとさらっと読める文章になるけど、しっかりした強さがある、感じる。

おもしろい考え方を言葉にすることは力だな。

人がどう生きてきたのかはまさしく本なのだ。

 

途中に挟まっている堀部さん・中村さんとのトークも良いですね。

誰かの話を聞く、その話が文字として残る。

読書は一人ではできないことだなと。

 

本屋は喋る仕事だ。

本について、本屋について。

「どういう本屋をつくりますか」と問われたら、やはり自分は「あなたの話を聞かせてください」から始めると思う。

おしゃべりしたその先に、誰かが書き残してくれた本を手に取りたい。

最近手に取る本に微妙にスパイスが効いてきたのも、相棒との対話があるからだ。

 

対話はいつものことながら本のテーマの周辺をぐるぐる回ってから。

続けていくうちにわかってきたけど、本の内容そのものはあまり深く考えることもなく、お互いが言いたいことを言っている。

本について話すというのは、本を囲んでその周辺をぐるぐる回っているみたいだ。

キャンプファイヤーか。

バターになるのか。

そのまま言葉が溶け合って混じり合って。