本の話・3回目
今月の課題図書はこれ。
積読状態だった本だけど、相棒が課題図書に選んでくれたのでようやく手を伸ばす。
もともと正木さんの本は以下の2冊持ってたんですよね。
フォントとか書体が好きで、そういう本にはついつい手を伸ばしてしまいがちな性分。
同じ文章を書くのでも、フォントの違いで読み応えが変わってくるので、資料をつくるときとかもなるべくこだわって文字を並べたいとは常々思っています。
精興社書体については学生時代になにかの本で読んで知っていて、日本の近代文学を形づくってきた要素のひとつだなーという認識です。
こうしていくつかの作家・作品名を並べてみると、実にいろんな文学作品につかわれてきたんだなってことがよくわかりますね。
印象的だったフレーズは以下のところ。
自分が見ている文字だって、他のひとも同じように見えているとは限らない。
読者がちがえば、読みかた、話しかたも変わる。その歪んだ鏡像にこそ、読書のよろこびがある。(p.140)
今、こうして相棒と同じ本を読もうとしているのもそれが楽しいからですね。
一人で読むより、二人で読んだほうが楽しい。
読書の価値は、本を読んでそこで終わりと言うより、読んだ後に何を語るかによると思う。
読み手同士で語り合うところに著者の言いたかったことが浮かび上がってくるんだと思います。
だから「読んだ本について語り合える相手がいる」というのはとても幸せなことだと思うのです。
本は一冊だけで完結するものではない。別の本を読むたびに、記憶は再構築され、何度でも出会うことができる。そうして私は「はてしない物語」が実在することを知ったのだ。(p.220)
本を読むということは完結するものではない。
読み終えた(ページを捲り終えた)と思った瞬間には、読んでない状態に引き戻されるような感覚がある。
「結局この本を読んで何を学んだのか?」はずっとついて回るし、なので何度も読み返したりもするけど、核心的なところはずっと捉えられない感じ。
けど、どこかに蓄積されたものがあって、そういう断片的なものをなんとか心に刻んていくようなことしかできていない。
私は不自由である。文字に翻弄され、とらわれている。(p.158)
読書というのも、なんと不自由なものだろうか。
できることは、そういう断片的なものをどこかに書き留めておくことくらい。
得てきたものを言葉という形にしてみることくらい。
せめて、せめてあなただけには語り残しておきたいと思います。