本の話・17回目
8月分の課題図書はこれ。
読み終えてみて研究にはまっていく過程とかその度ごとの悩みとかが記されていてこれはほんとうにいい本だなと思いました。
未開の扉を探して自力で切り開いていくのは研究するにあたっては当然のことのように語られてしまうけれど、それを苦しみや悩みの気持ちも伴いながら楽しく自分のことを描ける力を持った文章に感服したのです。
研究論文は、何年経っても永遠に残り続けるものだ。(p.112)
「論文はタイムマシン」と題されたコラムのなかの一節。
郡司さんとリチャード・オーウェンが並んで対談しているようなイラストがとてもいい(イラストということなら表紙に描かれた郡司さんの幼少期と現在の郡司さんの対比もとてもいい)。
リアルタイムではお互いが交わることがなくても、論文をとおして対話ができる。
記録とか研究成果の蓄積とか、何かに没頭したことの成果が未来の誰かに託される。
後の世代が先行する世代を身近に感じるように、先行する世代も未来の誰かを見つめている。
先生から幾度も「ノミナを忘れよ」と念を押された。ノミナ=Nominaとは、ネーム、つまり「名前」という意味をもつラテン語である。筋肉や神経の名前を忘れ、目の前にあるものを純粋な気持ちで観察しなさい、という教えだ。(p.75)
解剖用語は「名は体を表す」ケースが多いがゆえに、名前を意識し過ぎてしまうと先入観にとらわれ、目の前にあるものをありのまま観察することがでいなくなってしまうのだ。(p.76)
郡司さんの気づきにある「名前を気にしない」ということは解剖の研究じゃなくても参考になるところが多い。
それまでにないものに気がついてそれに名前をつける行為は、思い込みとかに縛られてしまうと難しかったりする。
名付けるこということは違いに気がつくことなので、それを自らの目で見たものにもとづいて観察するのはとても理にかなっている。
なぜこんなに標本を作るのか。それは、博物館に根付く「3つの無」という理念と関係している。「3つの無」とは、無目的、無制限、無計画、だ。「これは研究に使わないから」「もう収蔵する場所がないから」「今は忙しいから」……そんな人間側の都合で、博物館に収める標本を制限してはいけない、という戒めのような言葉だ。
たとえ今は必要がなくて、100年後、誰かが必要とするかもしれない。その人のために、標本を作り、残し続けていく。それが博物館の仕事だ。(p.212)
前回の『夢見る帝国図書館』は図書館の話で、そっちではお金の話も出ていたけれど、 残そうとしている対象が異なるだけで、やりたいことは両者とも同じ。
残すことは過去の人たちへの敬意であるとともに、今自分が見ているものを未来の人に託すということでもある。
p.103のキリンとオカピの骨の形を比較した図はとても印象的だった。
ひたすら観察をして相違点を探る。
気の遠くなるような作業の積み重ねと、ひたすら思考する時間のなかで見いだせる光明がある。
論文を読みこなせなかった学部生の頃があって、同じ論文を読めるようになったときとの比較もされている。
学問というものが少しずつ積み重ねていくものだということがよくわかる。
いい意味でキリンの見方が変わってしまう本でした。
物事を見つめる視点を更新する力はとても魅力的でした。
ぜひ高校生とかに読んでもらいたいなと思える本でした。