本の話・8回目
今回の本は相方が勧めてくれた。
二人とも本に関する本が好きなので、こういう選書が多くなる。
この本が出版されたのはもうだいぶ前のことになるけど、今回の課題図書になって初めて読むことができた。
教えてくれた相方に感謝。
まず何よりタイトルがいい。
私らはどうしても本について心配してしまう、心配しすぎているようにも思う。
それが「心配するな」と言い切られている。
本に「冊」という単位はない。あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることをくりかえしている。(p.8−9)
本に「冊」という単位はないなという風には思うようになったのは、情報検索の世界で本の目次の情報を利用しようとした話に通じる。
本はたまたま「冊」という紙の束にまとまってはいるけれど、なにも一冊単位で考えることはない。
そういう風なものの見方を獲得してから、本というものへの眺め方が変わったような気持ちになったことを思い出す。
「冊」でも「ページ」でもなく。
読んだところもすぐに忘れてしまうし、読んでないところは妄想してしまう。
本というものの実態はなかなか捉えれきれないものだと思う。
けれども本という物体には、どこか動物じみたところがある。それは生まれ、飼い馴らされ、売買されることがあっても、どこか得体の知れないところ、人の裏をかくところ、隠された爪や牙、みなぎる野生がある。(p.23)
本が動物っぽいという見方はおもしろかったけど、思えば自分も本を意思があるものみたいに感じることがある。
実は本が主体であって、それを読んだり持ち運ぶ人間が本に操られているというような感じ方。
人間が本を操っているようで、実は本が人間を操っている感じ。
そういう感覚がいつの頃からか芽生えて、その思いが消えない。
本を探し求めるというのは本に振り回されるという言い方もできるし、もとの定価以上に値段のついた古書に大枚をはたく姿なんてのは、見方によってはとても滑稽なことのようにも思える。
本は無限にある。もちろん「ほんとうの無限」ではないが、ひとりの人間の短いライフサイクルにとっては、「事実上の無限」だ。その「無限」の中から、蜜と花粉をたんねんに集めるミツバチのように、自分のための本を部屋に集めてくる。(p.252)
私たちはそういうことを分かりながらもせっせと蜜を集め続けている。
けれども本には独特の吸引力があり、一冊は必ず遠く隔たった別の一冊、二冊、三冊を知らず知らずのうちに引き寄せてしまうのだから、「無人島の一冊」的な剥奪のユートピアは、実際に無人島にみずからを拉致する勇気がなければ、とても実現することはできない境地だろう。(p.68)
本が本を連れてくる。
これはもうほんとに本というのはそういう生き物なんだなと思う。
「私」がある時そこにいることをもっとも直接的に教えてくれるのは、触覚だ。全身の肌が感じる空気の、温度、湿度、動き。この全面的な包囲は、どんなかたちでも置き換えることができないし、媒体に記録することもできない。だから「風が吹く、ゆえに、われあり」。(p.146)
たぶんこの部分の趣旨と全然違うのだけど、風を感じることと触覚について書かれたこの文章を目にして思い出したのが、ハンバートハンバートの遊穂さんのライブMC集のセリフでした。
最近つい「あーいい風」って言ってしまうけど、それってオバサンしか言わないセリフ。
という感じの言い方。
オバサンぽさを親しみを込めて笑うような言い方でしたけど、こういう前向きな表現はみんなつかえばいいのになって思ったりしました。
そうだ、いい風を感じたら「あーいい風」ってすなおに言えばいいんだ。
誰の心にとっても、未来のための最大の資源は過去です。私たちは過去に経験したさまざまなことを、「あれはどういうことだったのかなあ」とくりかえし自分に語り、自分にむかって問いながら、生きている。経験は物語化され、たぶんありのままの現実の過去とはどんどん離れ、それでもときおり生々しくよみがえりながら、私たちにつきまとう。言語とイメージの複合体としての世界を、われわれは物語と比喩によって了解しながら生きています。物語はその本性上、つねに書き換えを要求するので、新たな経験に出会うたび、われわれはその経験を物語化するとともに、これまでの自分の物語の総体を見直しています。解釈という操作は、次々に現れる新たな物語そのものが、われわれに要求しているのです。外からやってきた新たな小さな物語は、われわれの内部に住みついた物語の塊の中に、自分自身の巣穴を掘ろうとする。その小さな動物に居場所を与えてやるために、われわれはそれまで使っていた記号体系に、少しだけ変更を加える。(p.242−243)
これと似たようなことは自分も過去の「アーカイブ」と未来に対する「クリエイション」という言葉で考えていて、それと似ているようなことが既に言われていたなと気づいた部分がここでした。
物語化という創作の力。
はっとして文字を追う目の動きが遅くなった部分です。
物語というのは自分自身に巣穴を掘る。
そんな風に考えたこともなかった。
先に本は生き物と書かれていたところを引用したけれど、経験したことは物語という形で生き物となって私たちに迫ってくる。
過去が現在の私をつくっている。
自分の考えはころころ変わるけれど、それは過去の自分が選んだことによっても左右される。
過去を乗り越えるとか、過去を精算するとか、そういうのはほんとうは無理なのかもしれないとも思える。
そういうことも含めての今の自分。
いずれにせよたしかなのは、こうして文章が手渡されるとき、それはつねに解釈と翻訳を求めているということです。こういってもいいでしょう。すべての文章は、読まれたくてたまらないのだと思います。作者の意図とはまったく無関係に、そこに投げ出された文章そのののが、読まれたがっている。解釈してよ、といっている。翻訳してください、と頼んでいる。そしてそれが、現実には出会うことすらない遠い人々が「世界をどのように想像しているか」をもっともパワフルに教え、それをわれわれ自身が現在いだいているような世界の想像にとっての、脱出のための扉として提供してくれる。(p.248)
読まれたくてたまらない。
書かれたものは、読まれたくてたまらない。
そんな風に考えたことはなかったけど、こうして自分が文章を書いて公開してみると、確かに読まれたがっているとも思える。
人は「本を読みたくてたまらない」と思う一方で、本は「人に読まれたくてたまらない」と考えている(と思う)。
ここでもまた人と本の主体がどちらになるのかが入れ替わる。
自分はそういう「本を運ぶミツバチ」というイメージがとても気に入っていて、自分が集めた蜜のような本の集まりを、いつか誰かがそれを見て楽しむだろうか。
集めた本たちがどこに行くのかは決してわからないままだけれど。
この本を読んでいて、自分はひたすら本文の内容ばかりに目についていたけど、相方は詩のような見出しにたくさん言及していた。
見ているところが自分と違うなって話しながら思って、それも含めて今回のセッションはとても楽しかった。
あと『本は読めないものだから心配するな』という言い方はとてもおもしろくてそれでいて安心できるんですけど、これは自分の好きな『読んでいない本について堂々と語る方法』にも通じるとてもぐっとくるタイトルだと思う。
読んだ本の大部分が読まないのとまったくおなじ結果になっているのは、ぼくもおなじだ。(p.7)
本が読めないことに対する恐れとか悩みは、ほんとうはそういう風に感じなくてもいいのだ。安心してみたまえ。
というような根拠もなさそうな前向きな言葉をいただけたような気がしました。
本の話・7回目
10月も忙しいと言いながら過ぎてしまった。
秋はイベントも多いからうかうかしているととどんどん空気が新しいものに変わっていってしまう。
今回の課題図書はこれ。
2015年に出たときに買ってしばらく積ん読してから読み始めて、今回の課題図書になったので改めて読み返した。
自分自身は社会学を専攻していたわけではないのだけど、大学に入学してから「あー、こういう学問も学んでみたかったな」って後々になってから思えた学問分野の一つが社会学です。
社会学の本を読むのは自分の専門分野にも役立つところが多かったりすることもあって、今でも強い憧れがあります。
「断片」という言葉はなにかの一部分という意味だし、ものごとの全体像を捉えることはたぶんできなくて、社会というものの全体像はたぶん誰にもわからないから、そもそも私らは「断片」を組み合わせて世界を認識しているようにも思う。
そもそも私たちは自分の顔に張り付いた目という不自由な視点からしか世の中を見ることができないし、自分の身体の筋を目一杯伸ばしてみた指先くらいのものにしか触れることができない。
自分の専門分野もそれはそれで「断片」の集まりだ。
「断片」だらけの世の中とはいえ、触れることができたものは日々増えていくもので、意識的に・無意識的に私らは実にいろんなものに触れている。
まえがきにこう書いてある。
本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。(p.7)
「言葉にする」というのはとても厄介なもので、そのときの自分の体調とかタイミング次第で、書きたいことも書けることも変わってしまう。(このブログの記事も最初のタイミングを逃しているから、当初のものとは違う文章になっている。)
なので言葉にできるときにそれを言葉にしないといけない。
そういう風に常々思っていながらなかなか書けなのが悩ましい。
こんな風にも書いてある。
ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは、語りそのものになる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り物や容れ物になっているのかもしれない。(p.58)
これは個人的な体験に限定されるものではなくて、何かの本を読んだときにも同じことが言える。
本について誰かに語るとき、本の内容が自分自身に憑依してくるような感覚がある。
「あの本にこんなことが書いてあった」と語るとき、本の著者が自分の頭に入り込んで自分が操られているような感じがする。
語りの乗り物とか容れ物になるという感覚は、歳を重ねるほどに強くなっていく感じがある。
世の中での自分自身の役割というか、ささやかながら自分が世の中に貢献できるところはなにかってことを考え始めると、見聞きしたことを自分を容れ物にしてどこかに運んでいって、また誰かの容れ物に入れていくことくらいしかできなくて、という感覚がある。
自分を語る時間を増やすとか、言葉になっていなかったことを言語化するとか、そういうことを周りの人たちと考え始めるようになってきた。
読書体験は誰かに語りたいと私は思う。
けれどそれでいて語りたいと思える相手はそんな簡単には見つからなかったりする。
乗り物・容れ物であることを自覚しながら、どこでその積み荷を下ろすのかを迷い続ける感じ。
次はここ。
居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、手に入れられないかのどちらかのときで、だから居場所はつねに必ず、否定的な形でしか存在しない。しかるべき居場所にいるときには、居場所という問題は思い浮かべられさえしない。居場所が問題となるときは、必ず、それが「ない」ときに限られる。(p.80)
それが問題化されるときは何かが起こってしまったとき。
注目されるようになるということは、何か異質的なものがあったり、違和感があるときだなぁとは確かにそう思う。
安住しているときにはそれをわざわざ意識しないかもしれない。
居場所の問題ということを考えると、自宅のソファを取り合って子供たちがたまに喧嘩してしまう場面を思い浮かべてしまう(本を読むのに最適なソファ)。
それとまちなかを歩いていてベンチが見つからないとき。
「その場に居たい」という欲求を形にするためには、そこにあるモノの力が大きいとも思える。
とはいえ、できれば肯定的な意味で居場所のことを語りたいとも思う。
居場所とか居心地とか、身体とともに生きているうちは常につきまとう問題である。
以前に課題図書に取り上げた『読む時間』のことを思い出す。
時間の話。
私のなかに時間が流れる、ということは、私が何かの感覚を感じ続ける、ということである。たとえば、私のなかに十年という時間がすぎる、ということは、私が十年間ずっと、何かの感覚を感じ続ける、ということである。もちろんそれは、苦痛ばかりとは限らない。生きるということは、何かの感覚を感じ続けることである。
ある人に流れた十年間という時間を想像してみよう。それは、その人が十年間ずっと、何かの感覚を感じ続けているのだろう、と想像することである。私たちは、感覚自体を何ら共有することなく、私たちのなかに流れる時間と同じものが他の人々のなかにも流れているということを、「単純な事実として」知っている。(p.142)
時間は誰にも同じように流れ続けている、はずである。
けれども時間の長さはそれぞれに違っていて、同じような長さに感じる時間は存在していないとも思う。
時間はとても個人的で感覚的なものだと思うから、私の10年とあの人の10年はきっと違う10年になってしまう(数値としては同じでも)。
大人になってからの1年間と、子供の頃の1年間が全然違った流れに感じてしまうように。
相棒は「知り合ってなかった時間」のことを言っていた。
お互い知らないままで知りあってなかった時間のほうがはるかに多いはずなのに。
私自身も同じように感じていて、古くからの知り合いのような感覚もあって、そういう絵本みたいに「今までどこに隠れていたの?」という気持ちになってしまう。
「私たちは、感覚自体を何ら共有することなく」と言われているけれど、それははたしてほんとうだろうか?
知らなかった時間にも共有できたものがきっとあるような気もしている。
半分とどれくらいかの時間が過ぎて、歳をとってきている。
時間の流れ方は体感としてどんどん早くなっている。
いつの日か、相棒とも知り合って以降の時間のほうが長くなる日が来るわけだけど、その日がとても待ち遠しいとも思う。
文化とは。
「良い社会」というものを測る基準はたくさんあるだろうが、そのうちのひとつに、「文化生産が盛んな社会」というものがあることは、間違いないだろう。音楽、文学、映画、マンガ、いろいろなジャンルで、すさまじい作品を算出する「天才」が多い社会は、それが少ない社会よりも、良い社会に違いない。
さて、「天才」がたくさん生まれる社会とは、どのような社会だろうか。それは、自らの人生を差し出すものがとてつもなく多い社会である。(p.199)
自分は比較的若い人に関わる仕事をしているのだけれど、年々わからない(理解できない)ことが増えていっている。
手に負えないような感覚、自分とは別世界のことのように見えるものが増えていくような感覚がある。
自分自身の専門の仕事は、内容としては洗練されてはきているけれど、それがどういう風に彼らに伝わるのかということが少しずつぼやけてきているようにも思える。
世界(大きい主語)はとてもぼやけて見えるし、遠くまで見えない。
かといって、手元もはっきりと見えなくもなってきている。
それでも今自分はここにいる。
残りの時間を考えると、できることはきっとそれほど多くはない。
良い社会に近づけるような仕事をしたいと思う。
相棒は「表紙とかの写真がいいよね」と言っていた。
言われてなるほどなって思う。
どこにでもあるような普通の風景写真しかないけれど、それはそれでこの本らしさがある。
切り取られた風景の味気なさ。
味気ない「断片」の世界。
私自身も「断片」の世界。
本の話・6回目
夢のような9月はなんだか忙しかった。
毎年同じことを言っているようだけど、気がつけば10月になってしまった。
迷路のようだ。
今回の課題図書は古典でした。
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤忍随
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/07
- メディア: 文庫
- 購入: 27人 クリック: 297回
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今よりも若かった頃に読んではいて、でも内容的には忘れていたところも多かった本のうちの一つ。
なので初めて読む気分で読んでセッションに臨む。
読んだけど内容を忘れてしまった本は未読と言っていいのです*1。
「読書」の本ばかりを読み固めていて、相棒がこの本のことを話題に出したことがきっかけだったか。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。(p.127)
本には他人の考えたことが書かれている。
読み手はそれをなぞっていくことしかできない。
紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。(p.129)
先行していった人が何を見たのかはわからないけれど、本を読めばそれがわかるというものでもなくて、結局は自分の目で見に行かなかければならない。
それは確かにそうだろう。
けれども、先行する人が残していった足跡やたどっていった道が見えるようになっただけでも、それだけでも大したものじゃないかと褒めてもらえそうな気もしている。
足跡をたどろうと思えたことは、それは自分が何かに引っ張られて引きづられていくようなものだ。
足跡を見つけてしまったのだ。
先行する人が見たものはわからないけど、何かを見たことは推測できる。
本を書いたときとは時間も経ってしまっているから、たぶんその人とまったく同じものは見えないだろうけど、同じ窓から同じ風景を眺める気分にはなれる。
その風景を追い求めてみたい。
地層は太古の生物を順序正しく、分類的に保存している。図書館の書架も、順序正しく過去の誤った説を分類的に保存している。(p.131)
分類の考え方は大好きなんだけど、それを地層と古生物にたとえるのはおもしろい。
保存という言葉には主体的に残すというニュアンスを感じていたけど、ここでは生物と地層の関係が逆転している。
生き物が(生命が)大地を利用して生きていたと思いがちだけれど、長い目で見てみれば、大地が生き物を飲み込んでパッケージすることになる。
ここで意思を持っているのは、むしろ地層の方に思える。
生き物は大地に食べられてしまう。
図書館の書架も、本が主役で書架は単にそれを並べるところと思いがちだけど、書架が分類し、書架が保存している。
主語が書架になると、本は図書館に飲み込まれていくイメージだ。
本が人を操っている、書架は本を操っている。
人は、翻弄されるばかりだ。
読まずにすます技術が非常に重要である。(p.133)
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。(p.134)
書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである。(p.137)
それなりに歳を取ってきてみて、読み方はずいぶん変わった。
乱読という言い方が適切かは微妙だけど、あまり特定のジャンルに固定化しないような読み方だった気がする。
読みたい本はたくさんあるけれど、今はもう読める本に限りがあることをひしひしと感じている。
どっちにしろ選ばないと読めない。
「読まずにすます」がショウペンさんの言うように簡単にできたなら。
「悪書を読まぬこと」は簡単にできそうなのにできない。
けれど自分たちに残された時間はそれほど多くはない。
「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。(p.138)
同じ本を反復して読むというのはできそうでなかなかできない。
一冊を読み終えると、ついつい欲張って新しい本に手を出してしまう。
ページを開いた本の冊数をつい増やそうとか考えてしまう。
あれも読みたいこれも読みたい。
同じ本をもう一度読みたいとか、読むべきかとか、そういう判断が難しいこともあったりする。
ショウペンさんが単に「二度読むべき」だけじゃなくて、「続けて」と断っているところが重要な気がする。
読み終えて、振り返って、二度目を読み始める。
照明の明かりが古びてしまわないうちに。
照明の数は多いほうがいい。
読み合いは自分の再読の照明もあって、セッション相手の相棒の照明もある。
自分では気がつかなかった言葉が見える。
題材を選びながら誰かと同じタイミングで歩調を合わせて本を読む。
誰かの足跡を二人でたどってみる。
それはいつか轍になるだろうか。
本の話・5回目
今回の本はこれ。
出たときから気にはなっていたけど買いそびれてて、相棒に勧めてもらって一緒に読むことになってようやく買いました。
いいきっかけです。
中身は写真集なので書かれた文章について話し合うことは少なくて、でも写真についてのお互いの印象をあれこれと言葉を続け合うのがおもしろかったですね。
文字と違って写真は見るところがずいぶんと異なる。
情報に余韻が多い。
写真集で語り合うのはとてもおもしろかった。
「読む」に限らず、自分の行為・行動を客観視する視点を持てるようになったのはいつ頃のことだかもうすっかり忘れてしまったのだけど、そういう俯瞰した視点をこの写真集は感じさせてくれる。
被写体になっているのは他人なのだけれど、まるで自分がそこにいてもおかしくないというような感覚を覚える。
見知らぬ誰かの振る舞い。
「読む」という身体のつかい方、「読む」という姿勢。
背中を丸める、椅子に腰かける、寝転ぶ、足を組む、足を投げ出す。
本を読むという振る舞いは、風景をどういう風に切り取ってもだいたい似たような形になってしまう。
私たちの身体は「本を読む」という行為から自由になりづらい。
手は塞がるし、目も塞がる。
耳は頼りなくなるし、周囲に対する感覚も鈍る。
でも心と頭はどこか張り詰めた空気のなかにいる。
身体から心が抜け出したように。
頭が置いてきぼりをくらうように。
そういう自分の身体の動きに気づかせてくれる。
誰かが本を読むふるまいはステキなだなと思っています。
読む身体。
何を読んでいるのか、その本も気になるし、その本を読んでいるあなたのことも気になる。
自分自身もどこか人目につくような場所で本を読むことがあって、そのときにどこかの誰かが私の読む身体に反応しているかもしれない。
そういう気持ちを思い起こさせるような本だなと思います、これは。
文章らしきものは、冒頭の谷川俊太郎さんの詩と、ロバート・グルボのまえがきくらいしかない。
谷川さんの詩がまたよい。
そして自分とはまったく違う考えが
いつの間にか自分の考えとハグしているのに気づきます
本を「読む」というのは、その本の著者の考えを自分のなかに取り入れるようでありながら、自分自身がそれによって変わるものだなと思います。
自分は読書を通じて常に揺らぐ。
取り込むというより、変容をもたらす。
読む前の自分とは違う人になってしまう。
それは本について誰かと話すことで、より強く変わっていく。
自分の読みと相棒の読みが違う。
あたり前のことだけど、語り合うことでまた印象が変わってくる。
とてもステキな本でした。
直前になって読み合う本を変更したのですが、今回はこれくらいの内容でよかった気がしますね。
本の話・4回目
延期が2回あったけどセッションは毎月続いている。
よかった。
今回の課題図書はこちら。
内沼さんの取り組みには長年注目してて、前著の『本の逆襲』も楽しく読んだ。
前著から4年くらい時間が経って、しっかりアップデートされている感じがしました。
(内沼さんご本人も書いているけど、核となる部分はそれほど変わってないですね。)
今回の本は前半部分に付箋を多く貼りました。
たとえばここ。
本棚が生活空間の中にあると、背表紙や表紙が、日々の生活のなかで目に入る。かつて読んだ本であれば、そのたびに内容が頭をよぎるし、まだ読んでいない本であれば、中身を想像したり、買ったときのことを思い出したりしながら、いつか読もうという気持ちになる。
それは自分という個人のフィルターを通って、選ばれたものだ。出費がともなうぶん、精度の高いフィルターを通って厳選されている。並べてみると、傾向が見えてくる。自分はこういうことに関心があるのかとあらためて気づいたり、並び替えているうちに、本と本の間に接点が見えてきて、新たなアイデアが生まれたりすることもある。いわば自分用にカスタマイズされた図書館であり、これが日々の読書の拠点となり、ものを考えるときの道具にもなる。(p.40)
こういう感覚、若い頃だったら頭でしかわからなかったと思う。
それなりに年齢を積み重ねてみると、自分にとって必要な本というのがわかってきて、買おうと思う本はだいたい似てくるようになってしまう。
良くも悪くも。
持っている本の数が増えてきて、全体を通して見るとまさに自分というものがこれまで生きてきた証のような書物群になっている。
そういう本に囲まれて幸せだ、とも思える。
でも一方で、本の厳選は加えるだけじゃなくて、減らすことにも厳選している。
「この本はもう読まない」「買ったけど結局読まなかった」そういう本もたくさんある。
古本屋さんに手放してしまった本、誰かにあげてしまった本、振り返ればそれらも自分の血肉にはなっているとは思うけど、目の届かないところに行ってしまうとすっかり忘れてしまう。
手元にある本、手を伸ばせばそこに置いてある本、そういう本たちを選び抜いてきたことは、不要と判断してしまった多くの本たちの存在も抜きにしては語れない。
「目が肥えてきた」とも言えるし。
若い頃より本にかけられるお金は増えているはずだけど、本選びはよりコアな方向に向かっている。
それは確かに若かった頃の自分の選んだ本なわけだけど、それが歳をとってからも必要になるわけではなくて。
若い頃に着ていた服がもう着れなくなってしまったように。
そのときに必要な本は常にアップデートされていく。
「本」を厳密に定義することは不可能だ。遠回りをしたようだが、いったん「本」を広く捉えてみることで、読者のみなさんそれぞれに、自分なりに「本らしい」と感じるものについて考えてもらうために、ここまで書いた。読んでいて違和感のある箇所があれば、そのあたりにあなたの「本」と「本でないもの」との境界が隠れている。(p.84)
自分は何を「本」と感じているのか。
ここ数年で自分自身もだいぶ柔軟な考え方(本をなるべく広く解釈する)に変わってきたと思うけど、それに対しての内沼さんの影響はとても大きくて、「本らしさ」を考える癖がついてしまっている。
私は「本」であり、あなたも「本」である。
内沼さんは「コミュニケーションも本かもしれない」という言い方もしている。
コミュニケーションと対話が同じというわけではないけど、たぶん対話もそこに含まれるだろう。
対話の形もいろいろあって、今現在に生きてる人との対話もあるし、死者との対話もある。
どちらも誰かに対して語りかけたいのだ、自分が。
私が言葉を発することで、未来に生きる人との対話も可能だ。
「本を読む」という行為は「人の考え方を読む」ということなので、紙の世界にこだわることもすっかりしなくなってしまった。
人はそれらのコンテンツを通じて、自分がこれまでに得てきた経験や知識と照らし合わせながら、様々なことを思い浮かべたり、考えたりする。何度も書いてきたことだが、みなそれぞれ生きてきた人生が違い、読んでいるときの環境も違うから、一冊の本、ひとつのコンテンツから、同じものを読み取るということがない。百人の受け手がいれば、百通りに異なるからこそ、同じ小説や映画について誰かと語り合うのは楽しい。(p.74)
本について語り合うことができるというのは、とても幸せなことだなって思います。
「自分がその本に出会う前に誰かが運んできてくれたこと」と、「自分自身がその本に向き合って文字を追って読む時間」が読書にとって大事なことだとは思いながらも、「本を読み終えたあとにその内容を実際につかう」という機会は、その本について誰かと話すことだと思うのです(話さなくても自分の行動に表れたりとかもあると思いますが)。
そこにあるのは関係です。
本を介して誰かと関わること。
そういう楽しみ方を若い頃から知っていたら、今の自分とは違った読書体験や読書遍歴になっていただろうとは思う。
これまではそれでよかったのですが、今は読み合う相棒がいて、そういう風に歳を積み重ねることの楽しさを感じます。
この本のなかでよかったなってところは、最後の第9章ですね。
内沼さんの半生が描かれた「ぼくはこうして本屋になった」。
(個人的に「自伝」というものを読むのが好きなのです。)
内沼さんがほかのいろんな媒体でも喋ってきたことだけど、自分語りは改めて読んでみてもおもしろい、その人ならではの視点が見えてきます。
おもしろい考え方をする人は、どこでそういう考え方を身に着けたのかを知りたい。
自分が体験してきたことは、文字にするとさらっと読める文章になるけど、しっかりした強さがある、感じる。
おもしろい考え方を言葉にすることは力だな。
人がどう生きてきたのかはまさしく本なのだ。
途中に挟まっている堀部さん・中村さんとのトークも良いですね。
誰かの話を聞く、その話が文字として残る。
読書は一人ではできないことだなと。
本屋は喋る仕事だ。
本について、本屋について。
「どういう本屋をつくりますか」と問われたら、やはり自分は「あなたの話を聞かせてください」から始めると思う。
おしゃべりしたその先に、誰かが書き残してくれた本を手に取りたい。
最近手に取る本に微妙にスパイスが効いてきたのも、相棒との対話があるからだ。
対話はいつものことながら本のテーマの周辺をぐるぐる回ってから。
続けていくうちにわかってきたけど、本の内容そのものはあまり深く考えることもなく、お互いが言いたいことを言っている。
本について話すというのは、本を囲んでその周辺をぐるぐる回っているみたいだ。
バターになるのか。
そのまま言葉が溶け合って混じり合って。
本を買いすぎている。
人に見られてしまう本棚を持っている。
なので、見られてもいいような本を意識的に並べている。
というかむしろ見てほしい本を並べている。
そこから何かを感じ取ってほしいとも思っているから。
本の並びが雑多だとも言われるけど、そのほうがおもしろいでしょう?
本棚から読まない本を抜き取って、その代わりに新しい本を差し入れる。
抜き取っているはずなのに、全体としては増えている。
「本が増え続けてますね」と言われるけど、そういう言葉を口にしている側も楽しそうなんである。
本棚とはつくづく見せるための装置であるなと思う。
本の話・3回目
今月の課題図書はこれ。
積読状態だった本だけど、相棒が課題図書に選んでくれたのでようやく手を伸ばす。
もともと正木さんの本は以下の2冊持ってたんですよね。
フォントとか書体が好きで、そういう本にはついつい手を伸ばしてしまいがちな性分。
同じ文章を書くのでも、フォントの違いで読み応えが変わってくるので、資料をつくるときとかもなるべくこだわって文字を並べたいとは常々思っています。
精興社書体については学生時代になにかの本で読んで知っていて、日本の近代文学を形づくってきた要素のひとつだなーという認識です。
こうしていくつかの作家・作品名を並べてみると、実にいろんな文学作品につかわれてきたんだなってことがよくわかりますね。
印象的だったフレーズは以下のところ。
自分が見ている文字だって、他のひとも同じように見えているとは限らない。
読者がちがえば、読みかた、話しかたも変わる。その歪んだ鏡像にこそ、読書のよろこびがある。(p.140)
今、こうして相棒と同じ本を読もうとしているのもそれが楽しいからですね。
一人で読むより、二人で読んだほうが楽しい。
読書の価値は、本を読んでそこで終わりと言うより、読んだ後に何を語るかによると思う。
読み手同士で語り合うところに著者の言いたかったことが浮かび上がってくるんだと思います。
だから「読んだ本について語り合える相手がいる」というのはとても幸せなことだと思うのです。
本は一冊だけで完結するものではない。別の本を読むたびに、記憶は再構築され、何度でも出会うことができる。そうして私は「はてしない物語」が実在することを知ったのだ。(p.220)
本を読むということは完結するものではない。
読み終えた(ページを捲り終えた)と思った瞬間には、読んでない状態に引き戻されるような感覚がある。
「結局この本を読んで何を学んだのか?」はずっとついて回るし、なので何度も読み返したりもするけど、核心的なところはずっと捉えられない感じ。
けど、どこかに蓄積されたものがあって、そういう断片的なものをなんとか心に刻んていくようなことしかできていない。
私は不自由である。文字に翻弄され、とらわれている。(p.158)
読書というのも、なんと不自由なものだろうか。
できることは、そういう断片的なものをどこかに書き留めておくことくらい。
得てきたものを言葉という形にしてみることくらい。
せめて、せめてあなただけには語り残しておきたいと思います。